話法のあれこれは面白いお話が満載なのでそこに逗留してしまいがちだが、それでは準備体操ばかりが高度に洗練されてしまうスノビズムなので先へ行く。
ユークリッド『原論』とは何か―二千年読みつがれた数学の古典 (岩波科学ライブラリー)
- 作者: 斎藤憲
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2008/09/17
- メディア: 単行本
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この本も、最後から1つ前の章が近代の「書かれた数学」とギリシャの「語られる数学」の違いを説明して盛り上がるが、
[そしてこのあたりの話は、「書かれた文字に振り落とされないようにしがみつく私」と「大演奏家の自由闊達に魅了される私」がまっぷたつに引き裂かれがちな大久保賢先生には、是非、一読をお勧めしたいがっ!]
でも最後は、比と比例の話になる。
「何倍かされて互いに他より大きくなりうる2量は相互に logos(比)をもつ。」
とか、
「同じ logos(比)をもつ量は analogos (比例する)。」
とか。
今でも欧米語で比は ratio だったりするし、こういう言葉遣いで思考のレッスン mathemata をする連中が弁論に興じたわけですねえ。
無理数は irrational/alogos ではあるけれど、別に存在しないことにしてそれを見ないようにしたわけではなくて、alogos で議論が停止してしまわないように analogos の取り扱いを工夫することで腕を磨いていたようで、数学者は、哲学者ほど饒舌ではないけれど、これはこれで面倒くさい人たちだ(笑)。
エッゲブレヒトが「西欧の音楽は rational と irrational がせめぎ合うことによって西欧的なのだ」と誇らしげに書いたのも、このあたりの話ですよねえ。
ratio は、modern や nation より根が深い。
音楽の場合も、ratio の取り扱いは、モダニズムやナショナリズムの取り扱いより地味に面倒ですもんね。「研究」しても簡単には「業績」につながらんし、紙に書く(文にまとめる)のは数学の論証・証明よりさらに手間がかかるかもしれない。
だからこそ、音楽学者が手間を惜しまずに、やらんとあかんのやけどねえ。
現代ニッポンの高等教育は、言語分析で ratio のうごめきをゲーム感覚で独習する引きこもり系が流行だったりするわけだが、これがシアワセなことなのかどうなのか。