色恋とイデオロギーズと「ポップ」の製法

依存したい人たちの双方の利害が一致したところに生まれる何かが克明に記述されている。

http://uzuramadoka.hatenablog.com/entry/2015/01/11/224005

内田樹が憑かれたように連投する無茶な発言を浴びて、雷に打たれたように覚醒しちゃう中年男性の心理[リンクせず]も、似ているような似ていないような。

色恋のイデオロギーズ的側面、イデオロギーズの色恋的側面だよね。

たぶんもう少しすると、また、「好きなこと研究」をめぐるいつものゴタクが、ある方面から発信されるのではないかと予測する。

「それが好きだから」は研究の理由にはなりません

と一見もっともらしいことを言うのだが、その含意は、

好きな対象について、「好き」以外のリクツを考えるのが学問です

という歪んだ教義であって、好きではない対象をどう扱うか、そもそも、好き/嫌いが非関与的な事案をどうするか、というのは、ハナから眼中にないんだよね。そういうのは「面倒くさい嫌なこと」フォルダに投げ入れて放置して腐らせる。

(=放置しておけばそのうちどうにかなるだろう、という他力本願。それは勝手に解決しているのではなく、誰かがどうにかしてくれているのだ、ということは、知らないわけではないと思うが言語化しない。

また、面倒なことを放置している責めを負わされるとヤバいことは過去に痛い目にあってわかっているので、言い逃れを適宜装填する。

実際には、言わずにやっている作業が膨大にあるはずなのだが、どういうわけかその部分を浮上させずに、あたかも「お目こぼしで生きているかのような軽佻浮薄な私」というキャラを立てることに全力が注がれている。)

で、「そこが人文と自然科学の違いです」と続く。

それは、色恋がイデオロギーズであり、イデオロギーズが色恋であるような磁場に依存してズブズブで、物事を始める前から終わってる……というか、語るキャラと存在の乖離に、いつまで保つのだろう、と思わざるをえない。

このような無理な姿勢から「ポップ」が発生するのだ、ということで、その伝承者を自任しているのだとしたら、まあ、しゃあないのかもしらんが、「ポップ」の製造法を時代に合わせて変えていく、というのはダメなのだろうか。佐野や桑田も、なんかちょっとずつ(あるいは大きく)微調整してるっぽいし(よく知らんけど)、いつも変わらぬ aiko は、もう紅白に呼ばれなくなっちゃった2015年なわけだが……。

(今日もまた、こうしてそっとブラウザのウィンドウを閉じる。)