ナショナリズムをどう考えるかとも関連するが、「グローバル化」とか世界市場・世界システムとかいっても、
- (a) 商品の移動:国境を越えて商品を売り買いする場ができること
- (b) 価格(交換比率)の変動:需要と供給が反比例する自由市場という有名なあれ
- (c) 資本の移動:企業が利益を国境を越えて次の事業に投入したり、いわゆるマネーゲーム的に資本を調達したりすること
3つが同時に一挙に成立したわけじゃないんですね。
16世紀に世界市場が成立した(ウォーラステイン)というのは、主に(a)の話であるらしく、でも、とりあえずシロウトの知識で考えても、この頃は、王侯貴族と出入り商人が高級品を言い値で売り買いして、需給バランスで交換比率(価格)が変動する健全な自由市場((b))が成立していたとは思えない。
アダム・スミスの「神の見えざる手」の国富論が啓蒙思想と組み合わせて語られて、マルクスが「等価交換には搾取があるぞ、労働を唯物論的に考えなおせ」と言い出す(b)の話は、やっぱり18、19世紀にならないとできそうにない。
そしてお金にも「市場」がある、そこに目を付けないとビジネスはやれないぞ、と(c)の話が出てくるのは20世紀ですよね。
一気に話を自分になじみのところへ引きつけてしまうと、音楽のナショナル・アイデンティティ論にも似たところがあって、
ヘンデルが国際人だった、とか、ウィーン古典派の国際様式とか言うのは、まだ、(b)というより(a)の段階。貴族社会で上手に立ち回って、音楽家が商品(音楽家の場合は自分自身が商品でもある)を売り込んでいる。イタリア・オペラの国際化もそうですね。
フランスのトラジェディ・リュリックやハンブルク・オペラは、こうした(a)の水準でイタリア様式に対抗するナショナリズムなので、19世紀の「読書する公衆/読譜する公衆」が、コスモポリタンなグランド・オペラのバカ売れと、ナショナリズムの希少価値にどう折り合いをつけるべきか議論するのとは(=(b))、話の水準が違いそうだ。
そしてドイツ音楽のナショナル・アイデンティティを「普遍が特殊であり、特殊が普遍である」という表象・記号の働き具合に見いだし、16世紀から20世紀までを串刺しに一覧しようと構想するのは、(c)に相当する議論であって、音楽におけるウォーラステインの「世界システム論」であり、近世における音楽の覇権がドイツにあったという主張になりそうですね。
絶対音楽の美学と分裂する〈ドイツ〉: 十九世紀 (“音楽の国ドイツ”の系譜学)
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ハイコンテクストな研究書なのに筋立てが「わかる」気がするのは、おそらく暗黙に「世界システム論」風の大きな見取り図を背負っているからだと思う。
[ここ→http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150326/p1のまとめにも、「世界システム論」談義を加筆しました。]