写真の「黒色」にも階調がある、という話はデジタル写真の時代になっても続いていて、どういう手順で色を混ぜて黒を作って、どういうインクでどういう紙に印刷するか、ということに取り組んでいる方々がいらっしゃるらしい。
視覚や色彩の認知がどのようになされているか、ということを考えれば、そういうことはあり得るわけだから、オカルトではないようだし、だから、木之下晃を「オリエンタルだ」と形容したマゼール(→http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20151226/p1)は、そんなことを言うあなたがオリエンタリズムに陥っているともいえるし、そのように抗弁したところで、そこに東洋の神秘を見る人は見てしまうだろうなあ、ということでもある。
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似たようなことが聴覚や音響の認知における「沈黙」についても、たぶん言えるのだろうと思う。
沈黙にも階調があるだろう、ということです。
ジョン・ケージとかそのあたりの人たちは「新しい沈黙」を発見したのではないか、とか、日本的な「“間”の文化」とか言いだされてしまいそうな領域が一方にある。
でも、「黒の階調」はモノクロームの写真だけじゃなく、カラー写真でも、影で画を締める、とかいうのがあったりして、普通に意識・操作・活用されているようだし、別に東洋人、日本人だけの専売特許ではなさそうだし、西洋の音楽においても、様々な沈黙が音楽の周囲や内部にある。
そして何が言いたいかというと、この話をアーティスティックではなく、普通の水準で考えたいのです。
沈黙の階調の反対側には、おそらく、やかましさの階調があると推察される。
「やかましい」と「にぎやか」は、どちらも「静か」(沈黙)の反対なのだと思うが、別の状態ですよね。
きっとこのあたりを、もうちょっと手際良く概念分析する人がいてくれたら喜ばれるだろうと思う。