言語の複数性

というときに、母語と外国語、という枠組を前提にすると、2種類の言語の関係や使い分けを考える、という形で、「2」を基本に考えることになりそうで、それはつまり、「私の言語」と「他者の言語」の2種類ということになるわけだが、

ひと頃さかんに言われたような「帝国」的状況、という枠組を前提にすると、誰かの母語である必要のない普遍語と、誰かの母語なのであろう複数の言語たちがあることになる。つまり、言語の複数性は、「2」ではなく「3」(普遍語+2つ以上のその他の言語)を基本に考えたほうが現実に合っているかもしれない、ということだ。

そして、本当に「帝国」的状況があるなら普遍語は1つだが、誰かの母語である必要のない共通言語が事情に応じて切り替わることは十分あり得る。

幸か不幸か、西欧の音楽はラテン語の帝国下で発展して、オペラは、イタリア語が普遍語とは言えないまでも共通言語である世俗世界を創出して……という感じに、英語の帝国以前の諸々を引きずっているわけだから、複数性とつきあう入り口として、悪くない分野なのかも(だったのかも)しれませんね。

日本の大学の日本語は、たまたま誰かの母語であるかもしれないけれど、制度としては、とりあえず暫定的に、(既に以前から)それを普遍語であるかのように運用する場である(あった)、ということでいいんじゃないか。

「知」とか「科学」とかのモードで考えるときに、少なくとも私は、母語を行使している、ということにはなっていない気がします。日本語を行使している場合であっても。

そういうことなのではなかろうか。