その可能性の周縁

不平等との闘い ルソーからピケティまで (文春新書)

不平等との闘い ルソーからピケティまで (文春新書)

  • 剰余価値の搾取(生産に投下される価値よりも仕入れ値を低く抑えることで利潤を得る構造)は、労働に対してだけでなく、ほぼ商品一般に関して成立する近代市場経済の基本のようなところがあって、労働者の疎外だけを言い募ることはできないのではないか。
  • 土地や資本の売買・貸借とは違って、労働の売買だけが雇い主(資本家)に有利で対等の契約になっていない、という階級闘争論があるけれど、労働者個人ではなく家族・家計という単位を設定した場合には、労働についても、土地や資本の場合のような(相互が対等の)貸借モデルで議論することができるのではないか。
  • 技術革新は常に余剰人員の首切りに帰結して、労働者を弱い立場に押さえ込む要因になる、という見方が本当にできるのかどうか、諸説あってそう簡単に結論はでそうにない。

という感じに、マルクス経済学が労働者の運動を組織するときに使われる定番のスローガンの数々に丁寧に疑問符が付けられて、さらにその先で、だったらそのような剰余価値の蓄積や資本家と労働者の不平等や技術革新について、別のモデルとしてはどういうものがあって、それが「21世紀の資本」なる書物の議論とどうつながっているのか、という説明が続く。

20世紀の後半には、マルクスの「可能性の中心」をかっこよく切り出す「新しい左翼」が活躍したわけですが、そうではなく、「可能性の周縁」をひとつずつ地道に潰していく作業になっているところがストーリーとして刺激的だと思った。こういう「ストーリー性重視」の面白がり方は社会科学の素人の邪道なのだろうけれど、20世紀に安全にアプローチするルートがやっぱりちゃんとあるんだなあ、と勇気づけられる。

(あと、不平等を語るときの焦点となるのは「資本の蓄積」なのだろうけれど、蓄積される資本の本命は、やっぱり、人的資本より物的資本のほうなんじゃないですか、という問題提起があって、これはつまり、スキルアップとか自己啓発とか、人間力で乗り切ろうとすることが、無駄ではなくても万能の神通力とはなり得ないだろう、とか、いわゆる「文化資本」の高い人を目の敵にして引きずり下ろすだけでは不毛だろう、とかいうような警鐘を鳴らす論点になりそうな感じがあるわけですよね。たぶん。)

[追記]

それとあと、ホブズボウムは17〜19世紀の西欧を「回転 revolution の時代」、20世紀を「戦争の時代」と言っていたはずだけれど、西欧の政治と産業がくるくる回転し続けていたのが、ロシアとアメリカを招き入れる「新しい諸体制」の登場で止まってしまって、20世紀の総動員で熱かったり、イデオロギー対立で冷たかったりした戦争はその「新しい諸体制」の間で闘われたのだから、20世紀は「新体制の時代」だったのかもしれない。そして諸体制の「壁」が崩れた先の21世紀は、やっぱり情報が果てしなく飛び交う状態がベースなのかもしれませんね。

そのような21世紀に「究極の体制」を期待したり、現在をそのような究極の体制への後戻りできない途上であると怯えるのは、20世紀になっても、さらなる「回転 revolution」を夢想する「後ろ向きの前衛」に似た時代錯誤なのかもしれない。