新しい器に何を入れるか?

蓮實・柄谷があった場所に入れる新しい本棚には、美術・演劇など芸術諸学の本を置こうかと思っておりますが。

アン・フリードバーグは『ヴァーチャル・ウィンドウ』で北米に亡命したパノフスキーの映画論に着目しているけれど、

ヴァーチャル・ウィンドウ―アルベルティからマイクロソフトまで

ヴァーチャル・ウィンドウ―アルベルティからマイクロソフトまで

それを言うなら、北米で最初に書いた本であるらしい『イコノロジー研究』は、(1) ルネサンスの画家たちが新しい視覚表現で何を描いたか、ということを、(2) イコノロジーと呼ばれることになる新しい研究手法で読み取っているわけだから、彼の本業の絵画論もまた、映画という新しい技術に人々が熱狂している新大陸に、二重の意味で「新しい器に何を入れるか?」という議論を仕掛けていることになるかもしれない。

イコノロジー研究〈上〉 (ちくま学芸文庫)

イコノロジー研究〈上〉 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: エルヴィンパノフスキー,Erwin Panofsky,浅野徹,塚田孝雄,福部信敏,阿天坊耀,永沢峻
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫
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パノフスキーの本は、ルネサンス絵画が画題としては古代(古典としての神話の世界)を扱っているし、図像としてはキリスト教中世の伝統を引き継いでいるけれど、やはり新しい人間像が描かれてしまっている、という話になっているからこそ、「新しい器に何を入れるか?」という問題提起になり得ているのだと思われ、アドルノやホルクハイマーの映画論に「何も見えていないお前が何を言うか?」と噛みついて、フィルム・スタディーズを信用しなかった蓮實重彦だったら、やっぱり「んなこと、お前さんに言われなくても映画人はわかってるよ」と言ったかもしれませんが、

パノフスキーを読んでいると、和声的調性と周期的な拍子リズムによるモノディーという新しい技術(「第二作法」)でギリシャ劇を復元しようとした「オペラの誕生」は、やっぱり、バロックの始まりというより、遅れてきたルネサンス、ルネサンスとバロックの蝶番だよなあ、と思う。音楽史における画期は、美術史よりもワンテンポ遅れることで次の時代を先取りする、という風に言うと話が簡明になるけれど、そういう整理で大丈夫なのかどうか。

オペラの舞台で何が演じられてきたか、という「絵解き」については、「オペラで学ぶ世界史」式の解説書がいくつかあって、まるでオペラ論が美術のイコノロジーを水で薄めて後追いしているかのようになっており、むしろ、この時代の音楽について、日本では相変わらず技術論が手薄過ぎるかもしれない。

(和声理論を通奏低音ベースにする、というだけで現場が大騒ぎしているくらいだし……。)

パノフスキーが20世紀美術論の「古典」として繰り返し読まれ得るのだとしたら、むしろ音楽については、ダールハウスの『和声的調性の成立』のような文献を翻訳で読める状態にしておいたほうがいいのかもしれない。

それにしても、「音楽史における画期は、美術史よりもワンテンポ遅れることで次の時代を先取りする」という印象は、18世紀から19世紀への転換期の古典主義/ロマン主義についても言えそうなところがあって、例えばベートーヴェンは古典派なのかロマン派なのか、という議論がずっとあるわけだけれど、具体的に見ていくと、ベートーヴェン自身はウィーンの貴族社会にどっぷり浸かってロマン主義への関心が薄すぎて、時代の蝶番というよりも、あまりにもわかりやすく「音楽のナポレオン」=「戦時の音楽」であり過ぎる気がします。「ベートーヴェンという問題」は、ドイツ語圏北部におけるバッハ一族の伝統やドイツ語圏南部のハイドンやモーツァルトとの関係、そして19世紀の受容・19世紀への作用というコンテクストを読み込まないと、時代の蝶番の話にならない。

逆に、当時、コンテンポラリーに成功していたロッシーニやウェーバー、「コンチェルトのスタンダード」(小岩信治)を創った華麗様式のピアニストたちは、過去も未来もなく、19世紀初頭の現在に過不足なく収まり過ぎていたかもしれない。(だからこそ、産業革命で資料・情報が爆発的に増大して容易に手が付けられない「暗黒大陸」(西原稔)になってしまっている19世紀にアプローチする最初の一歩としては成果を上げやすい対象で、過去数十年で音楽文化史・音楽社会学の格好のフィールドになったのだと思いますが……。私もこのあたりの音楽が一番好きだし、20世紀の戦間期にストラヴィンスキーやヒンデミットがウェーバーやツェルニーやロッシーニのパロディを書いたのは、おそらく、とりあえずの「現在」を「軽薄 Ungeist」に謳歌するのに丁度良い、ということなのだと思う。)

そういう風に考えていくと、ウィーンでエリート教育を受けて、遊び人の友人たちに囲まれて、次から次へと詩に曲を付けたシューベルトは、得がたい時代のセンサーだったのかもしれない。

堀朋平さんの近著は、詩の題材の由来をひとつずつ追いかけていくところから出発して、パノフスキーが絵画を見るように音楽を聴き、歌おうとしている感じがあるのかもしれませんね。

〈フランツ・シューベルト〉の誕生: 喪失と再生のオデュッセイ

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チャップリンと音楽狂時代

チャップリンと音楽狂時代

本棚を整理していたら、この本も買っていたことがわかって、チャップリンで20世紀を読む、という手つきは、案外、シューベルトに新旧論争の最後の帰結を読む手つきと似ているかもしれないと思った。