柴田南雄と日本音楽学会の科学哲学的な位置づけ

科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)

科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)

柴田南雄が芸大楽理に植物学風の「科学的」音楽観の種を蒔いて、その種がいまでは日本音楽学会の自律的に稼働する頑強な事務処理システムに育っているのを目の当たりにしたあとで読むと、戸田山和久『科学哲学の冒険』が、前に読んだときとは比較にならないくらい腑に落ちる。

柴田南雄がどういう種類の「科学」を信奉しているように見えるかについては、岡田暁生が柴田南雄著作集の解題で簡潔にまとめている。データを可能な限り網羅的に調べ上げて音楽の系統樹を作ろうとする柴田の目論見は、戸田山の言葉遣いに直せば、広義の帰納的推論のなかでも「枚挙」に特化しており、系統樹を目指す姿勢には、おそらく、音楽という対象の「独立性」と、われわれ(柴田自身であり彼が育てようとした音楽学者たち)には、どの主張が正しいか、音楽のありさまを知ることができるという「知識」への信頼がある。戸田山の言う「独立テーゼ」と「知識テーゼ」だ。

戦後文化人のモダニズムへの信頼、という枠組にきれいに収まっているように見えて、それは、実際にそういう家に生まれて、戦後そういう役割を果たした人なのだから、もはや歴史的事実だと思う。

滑稽なのは、現状の「音楽」と「知」の取り扱いにおいて、日本音楽学会が「対象実在性」(提唱される法則は常に仮説的だけれども、取り扱われる対象の実在=音楽の実在を決して疑わない)を堅持しようとするところだろう。学会ブランドで発行される印刷物の言葉遣いと、学会行事の運営手続きだけが前例踏襲で厳格化していく病の理論的・哲学的な支えは、おそらく「対象実在性」への信念だと思う。「音楽」は、「電子」のような科学的対象とは在り方が違っているはずなのに、そういう議論を展開するのに必要な回路がないんだよね。あたかも、「そういう議論をしたい者は他の学会へ行け」と言っている感じがします。

ありていに言うと、音楽と科学を混同しており、少々おバカに見えてしまう……。

「もし柴田南雄が今生きていたら、はたしてドグマティックな対象実在論者であり続けただろうか?」

柴田南雄を顕彰する動きがあって、それはまあいいけれど、その場合には、同時にこういう問いを立てていただきたい。

(ついでに言うと、対象の独立を認めて、知識への信頼を維持する柴田南雄の姿勢は、彼が「初めての渡米」で自伝をしめくくったのと無関係ではないと思う。渡米したところで「独立」と「知」は満願成就したかのようなのですが、それでいいのか?

彼の70年代以後のシアターピースやメタムジークは、なるほど秩序や理論のはかなさを示唆するけれど、そこにうごめく「対象」をみじんも疑わないところが、むしろ、音楽作品としての限界ではないかと私は思う。柴田南雄には、霊(日本的な幽霊なのかカトリック的なスピリットなのか定かではないが)の存在を信じている形跡があるじゃないですか。そういうオカルティックな信念が、音楽をあたかも科学的実在であるかのように取り扱うアクロバットを支えている気がするのです。

柴田南雄は音楽に対して「科学的」であろうとするあまり、実在を想定することのできない領域にまで踏み込んでいたように思う。柴田南雄が音楽の科学(音楽学)の業績をあげたことは認めるが、柴田南雄の信念に私たちが与するいわれはない。罪を憎んで人を憎まず、という格言があるが、功を讃えて人を崇めず、である。)