東の上流にJR東海道線の上淀川橋梁、西の下流に阪急電車の新淀川橋梁を望む新御堂筋・新淀川大橋あたりの堤防から梅田のビル街を眺める。
河口から8.0kmの距離標まで来ると、左に新御堂、右に阪急、正面に大阪駅ビル、川面も見える。
最寄りの南方駅と新大阪駅と、大阪に出てきて最初に住んでいた崇禅寺駅や、堺筋につながる柴島の位置関係を地図で理解したのも今回がはじめてでしたが、治水事業できれいに整備された緑地帯ごしに高層ビル群を見ていると、色々考えてしまいますね。
淀川は、商都大阪にとっては潤いをもたらす豊かな水脈だけれど(大栗裕は南側左岸の京阪沿線、淀や枚方に住むようになってそのような淀川にちなんだ曲をいくつか書いた)、一方、北側右岸の北摂から見ると、淀川は平地の大都会を丘陵と隔てる大きな裂け目であり、橋を架けるのは大事業だったんだろうなあ、とか、
(東海道線の鉄橋は、鉄道好きにとっての大阪のシンボルであるらしく、ウィキペディアにはとても詳しい項目が立っている)
新幹線は淀川を渡って梅田に入る在来線を強引に横切る形で敷設されており、そのせいで新大阪駅は在来線利用者にとって恐ろしく不便な造りになっていて、なるほど新幹線は弾丸列車なんだなあ、とか、
河川敷の公園でしばらくぼーっとしていると上空を飛行機が斜めに横切るのだけれど、調べてみると、このあたりも(庄内がそうであるように)伊丹空港の長い滑走路に南東から着陸するコース上なんだなあ、とか。
要するにこのあたりは高度成長以後の「北摂」のスタート地点みたいな場所なんですね。
(そういえば、母は高槻に転居したあとも、心斎橋や天王寺へ出るのに、梅田で乗り換えるのではなく、わざわざ新大阪駅でJR(当時は国鉄)から地下鉄御堂筋線に乗り換えていた。田舎者で梅田の鉄道事情をよくわかっていなかったせいだが、新幹線ができて、伊丹の空港に国際線が離発着していた頃には、新大阪周辺がこれからの北摂の拠点になるはずだ、という機運がなかったわけではないかもしれない。地方から出てきた者は、大阪駅より前に新大阪駅に降り立つわけですしね。で、180度視界が開けた河川敷から地下鉄に乗って梅田に出ると、狭い地底に潜った感じがしてしまう……。
高台の豊中から低地の大阪市に指令を出した橋本徹は「北摂的」に振る舞ったんだな、と改めて思います。伊丹や尼崎を「大阪都」に入れてしまえばいいじゃないか、というのも、神崎川や淀川で生活圏が区切られている「大阪市内」の感覚ではなく、山地・丘陵が府県のはっきりした境界なしにつながっている北部の「丘/山脈」の発想だと思う。阪急電車は豊中・池田・宝塚から川西・伊丹・西宮をつないでしまっていますしね……。阪神淡路の地震で、大阪市内は揺れなかったが、兵庫とつながっている豊中・箕面はかなり揺れた。そして北摂の大学に学んだ増田聡は北摂になじめなかったようで、杉本町の大学に堺や神戸から通っているが、同じ大学で「都構想」の歴史的経緯に理解を示した砂原先生は北摂の大学に転任した。)
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天王寺や長居や扇町や服部の公園もポケモン界では特色のある場所に設定されていますね。
天王寺公園は徳川や真田の茶臼山に隣接するだけでなく、かつて大阪市音楽団の本拠があって、大栗裕は中学時代、楽器を習いにここまで通っていたそうだし、扇町公園にはかつて大阪フィルの練習場があり、服部緑地は、調べてみると戦時中の防災公園が発祥だったようで、それぞれ足を運んでおいてよかったのではないかと……。えらくきれいに整備されている扇町公園を自転車が我が物顔に往来するのは危ないなあ、と思いますが。
(いずれにしても、雑誌「ユリイカ」は、こういう風なリアルとヴァーチャルのあわいに「詩」を見いだすセンスを持ち合わせてはいないようだ。文学は編集部とライターの添付ファイル付き電子メールの往来ではない。現場で起きているのだ。)