憂国のようなもの

山田和樹が本気で取り組むとしたら柴田南雄だろうとは思うけれど、柴田南雄によって代表される文化や地域というのがあるとしたら、それはあまり幸福な共同体ではないかもしれないなあと思う。

柴田南雄は作曲家としても音楽学者としても一流であった、と留保なしに言い切ろうとするから無理が生じる。様式模倣が生気のない標本のようになってしまうことや、科学精神といっても枚挙という方法論による系統樹の作成を目指していたに過ぎなかったことが柴田南雄の限界であり、再評価はそれを認めた上での話だろう。

ところで、「ゆく河の流れはたえずして」を初演したのは森正だったわけだが、柴田南雄の自伝を読み直すと、敗戦直後の森正がフルート奏者として参加していた室内楽を柴田が高く評価していたことがわかる。後年の文章でも、何度か当時を回想している。この交響曲は森正を信頼したうえで書かれたんだと思う。

この交響曲は、いかにも森正が適切に演奏できそうなスタイルで書かれていそうだし、例えば、古典派の様式模倣は、漠然と古典派の模倣という一般論で語るのではなく、森正がフルート奏者として吹いたモーツァルトの記憶(敗戦直後の日本の洋楽ファンの脳内にあった古典音楽のイメージ)だと思うほうが、像がくっきりするのではないか。後期ロマン派や無調等についても、模倣の典拠を同様に正確に特定することが、そのようなところに典拠を求めることで“歴史”が語れると考えてしまった作曲者の歴史性を現在の視点から評価する手がかりなのではないか。シュポアの歴史交響曲が、1830年代に書かれた当時既に盛りを過ぎつつあった音楽家による歴史像だったように、柴田南雄のメタムジークは、あくまでも1970年代後半に還暦を迎えた初老の日本人男性に音楽の歴史がそのように見えていた、という以上のことではないと思う。

プッチーニと三木佐助と日本音楽の五線採譜史

「蝶々夫人」はカルスタ・ポスコロの恰好の題材で、ロティ「お菊さん」やオペラ「ミカド」などを参照しながらロングの小説、これにもとづくベラスコの戯曲(これをプッチーニはロンドンで観た)を読むのが流行っているが、「蝶々夫人」が、宮さん宮さんやお江戸日本橋やかっぽれを原曲の文脈と無関係に引用した功罪については、随分前に徳丸先生が書いて以後、あまり進展がないように見える。

ひと頃は、イタリア大使夫人の大山久子(川上貞奴の欧州巡演を助けたこともあったらしい)がプッチーニに接触した事実に着目する議論もあったが、どうやら、彼女がアプローチする前からプッチーニは独自に日本の音楽の資料を集めていたらしい。

プッチーニ「蝶々夫人」のアメリカ批判 - 仕事の日記

それじゃあ、プッチーニは具体的にどのような資料で日本音楽を知ったのか?

フレッド・ガイズバーグの1903年の録音(レコード黎明期の日本の音楽の最古の録音)をプッチーニが入手していたのではないか、という説がちゃんと検証されたのか、私はよく知らない。(「蝶々夫人」作曲当時に存在したのはこの録音くらいだとは思うが。)

ほかには三木書店(のちに三木楽器を創業した三木佐助の店)から出ていた『日本俗曲集』(海外の需要を想定したのか英語の序文と目次が添えられて曲名は日英併記)が注目されているようだ。

国会図書館のデジタル・ライブラリーを見た限りでは、『日本俗曲集第1集』は1891年の初版、1892年の再版、1893年の四版で、収録曲や版組が少しずつ違う。「みやさんみやさん」「お江戸日本橋」など、プッチーニが使った旋律が揃うのは1893年の版になってからのようだ。

プッチーニの遺品等と照合してこのあたりを詰めれば、しかるべき研究になると思うのだが、誰もやっていないのだろうか。

『日本俗曲集』の編者は、1888年に第四師団軍楽隊員として大阪に着任したばかりの永井岩井(第四次第軍楽隊設立時の楽隊長だったらしい)と小畠賢八郎(隊長時代に菅原明朗が作曲を学んだことでも知られる)だし、日本における五線譜トランスクリプションの歴史に、三木佐助(のちにベルリンから帰国した山田耕筰をサポートすることになる)がしかるべき位置を占めているとしたら、関西洋楽史としても面白いトピックだと思うのだが。

好奇心

その1:

春先に何度か通ったはずだと思い、写真を探したらあった。

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市議会議員さんが国からの売買契約の情報開示を求めた土地の上空を飛ぶANAのボーイング767。

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exif情報によると、2016年4月26日14:55。着工前ですね。

その2:

2匹目が誕生したので、ピカチュウに関することはひととおり試すべし。

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進化させてみた。

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リバーダンスのヘクサメーター

楽譜をはじめて見たのだが、デュオのところは 6/8 と 4/4 が交替する変拍子。

-uu -uu | -u -u -u -u | -uu -uu | -u -u -u -u | -uu -uu | -u -u -u -u |

そしてフレーズの最後だけ 6/8 + 6/8 + 4/8 に変わって、

-uu -uu | -uu -uu | -u -u |

つかめそうでつかめないすばしこいリズムになっている。

要するに、2拍もしくは3拍のユニットが6つ並ぶ6韻脚ヘクサメーター風のパターンを、3 3 2 2 2 2 と実装するか、3 3 3 3 2 2 と実装するかの違いですね。

3 3 2 2 2 2
-uu -uu -u -u -u -u
3 3 2 2 2 2
-uu -uu -u -u -u -u
3 3 2 2 2 2
-uu -uu -u -u -u -u
3 3 3 3 2 2
-uu -uu -uu -uu -u -u

小節 tactus を分割する西欧の中世以来の数比的なリズム把握ではなく、小さなユニットをシリアルにつなげていく加算的なリズム把握だ。

一方、ラストの群舞は、同じメロディだがユニットがひとつ少ない5韻脚で、12/8 の普通のヘミオラでとしてオーディエンスがフォービート風にノルことができる(=加算的にも数比的にも聴くことができる)。

-uu -uu -u -u -u | -uu -uu -u -u -u | ... = 3 3 2 2 2, 3 3 2 2 2, ...

-uu -uu -u -u -u = -uu -uu -u- u-u

シンプルだけれども効果的なアイデアだと思う。作曲はビル・ウィーラン。


Eurovision 1994 Interval Act - Riverdance

大栗裕の早口でまくしたてる大阪言葉風の変拍子をちょっと思い出す(「大阪俗謡による幻想曲」の地車囃子に萌芽があるけれど、本格的にこれを使うのは70年代の「神話」以後)。フォークダンスをこういう風に近代化するアイデアは、技法としては、モードを使って民族性を演出するのと同じくらい古い芸術音楽の定番ではあるが、数比リズムと加算リズムという概念枠を導入すると、比較文化論っぽい話に展開できるかもしれない。

(色々な演奏を聴いたけれど、現役指揮者で大栗裕の加算的なリズムをつかんでいるのは井上道義だけのような気がする。ラテン系の音楽に取り組んでいると、加算的なリズムへの適性が高くなるのかもしれない。ドビュッシーやラヴェル、ストラヴィンスキーは加算的なリズムをしばしば秘かに使う人たちで、メシアンはそのことに気付いて不可逆リズムを考案したわけだが……。バーンスタインがプエルトリコ移民に関心を寄せて作曲したウェストサイド・ストーリーのシンフォニック・ダンスにも加算リズムの素敵なスケルツォが出てきますね。以前、宮澤淳一さんが指摘していたグレン・グールドのBPMのトリックも、西欧古典音楽の tactus を加算的にフラット化していると言えそうだ。)

ジャコパス

10数年前にジャズのライブによく通った時期があるが、それは個人的なきっかけからのことで、岡田暁生と張り合おうとしたわけではないし、ちょうど『憂鬱と官能を教えた学校』が刊行された頃だが、この本を読んだのは少しあとだったように記憶する。

(岡田暁生がジャズにハマっていると知ったのは随分あとのことで、大久保賢を連れてロイヤル・ホースへ行くとか、なんて恥ずかしいことをやっているんだこの人たちは、としか思わなかった。)

あるとき、地元の小さなライブハウスで、アフターアワーズにブルースハープ吹きが畏敬の念を込めて「ジャコパス」という言葉を口にして、会話がひとしきり弾んでいたのだけれど、私には何のことかわからず、「ウェザー・リポートですよ」とヒントをもらったのだけれども、そのときはそれっきりになった。

さっきバードランドなどをひとしきり聞いて、なるほど、この曲を岩井直溥が編曲した吹奏楽で知っているように思うのは、モーツァルトのコンチェルトを弾く姿だけでチック・コリアを語るのと同じくらい野蛮なことなのだろうと思った。

1943年のブルース行進曲と1981年の盗賊行進曲

サミー・ネスティコの周辺を調べていたら、ジョン・ウィリアムズまで話がつながってしまった。

ジャズの解説には、カウント・ベイシー楽団のアレンジャー、サミー・ネスティコが空軍バンド(US Air Force Band)出身だ、としか書いていないが、それじゃあ、空軍バンド(US Air Force Band)とは何なのか。

吹奏楽で「USエアフォース・バンド」は大変有名で、数々のオリジナル作品を委嘱初演したことで知られている。私も大学時代に、クロード・T・スミスが彼らのために作曲したフェスティヴァル・ヴァリエーションズという曲をやった。

空軍バンドの公式サイトで確認すると、US Air Force Band はひとつではなく、Concert Band (これが吹奏楽で言うエアフォース)のほかに、ジャズのビッグバンド(Airmen of Note)や声楽アンサンブル、今ではロックバンド(Max Impact)もあるらしい。ネスティコはUSAFのビッグバンドにいたようだ。

USAFのビッグバンドは、公式サイトでグレン・ミラーのバンドの後継だと称している。

Created in 1950 to continue the tradition of Major Glenn Miller's Army Air Corps dance band, the current band consists of 18 active duty Airmen musicians including one vocalist.

The United States Air Force Band - Band Ensemble Bio

グレン・ミラーが第二次世界大戦への合州国参戦を受けて1942年に陸軍航空隊に入って組織したバンドですね。(上の引用は Army Air Corp と書いているが、一般的にはグレン・ミラーの Army Air Force Band = AAF Band と呼称されるようだ。)日本語のサイトでは、「慰問」という言葉を使って、まるで民間人が国民総動員で戦争に協力したかのように書かれていたりもするが、グレン・ミラーは1942年から1944年に飛行機で消息を絶つまで軍属だった。階級は大佐 captain で、所属は

assistant special services officer for the Army Air Forces Southeast Training Center at Maxwell Field, Montgomery, Alabama

ということになるようだ。

合州国陸軍 US Army の航空隊 US Army Air Force が合州国空軍 US Air Force = USAF に改組されたのは1947年なので、1950年の Air Force Band へのビッグバンド設置はその直後という時期になる。「伝統を受け継ぐ」といっても、USAF のビッグバンドがグレン・ミラーの AAF Band の何を継承したのか、具体的なことはよくわからない。

グレン・ミラーの AAF Band は北米・欧州を巡演するだけでなく、連合国のプロパガンダ放送で番組を持ったりしている。YouTube にはその音源もいくつか上がっていますが、AAF Band の性格をわかりやすく示すのが「セントルイス・ブルース・マーチ」だと思う。

1914年に作曲されて、ルイ・アームストロングなんかも録音しているブルースをマーチに仕立てたグレン・ミラーのヴァージョンは1943年の AAF Band での仕事だったんですね。グレン・ミラーは「軍楽隊の改革」を標榜して、スーザのマーチを演奏していたメンバーにビッグ・バンドのスウィングを仕込んだ。その過程でマーチ仕立てのブルースが生まれた、ということのようだ。

日本の吹奏楽では、この「セントルイス・ブルース・マーチ」、セントルイス・ブルースの AAF Band によるマーチ編曲がレパートリーに定着しているが、当然ながら、グレン・ミラーの民間バンド時代のムーンライト・セレナードなどと違って、これが日本に伝わったのは敗戦後だと思われる。いったいどういう経緯で、このマーチが日本の吹奏楽に定着したのか。占領軍の放送や実演が最初だろうけれど、占領下でこのマーチがどういう風に受け止められていたのか……。

(中学生の頃から吹奏楽で何度か演奏したが、ジャズなのにジャズらしくなく、何なんだこれは、と思っていた。AAF Band や日本の敗戦後のジャズなどの経緯を知らない者には、何が嬉しいのかよくわからない曲だと思う。

ガーシュウィンのラプソディ・イン・ブルーもピアノとジャズバンドのコンチェルトという文脈依存の危うい均衡で成立した作品だし、バーンスタインのマルチ・タレントで何が主たる業績なのか見極め難い生き方に至るまでの、まだ1990年以後のような一人勝ちの「帝国」ではなかった頃の合州国は、これという決め手なしに折衷的な合わせ技で「短い20世紀」を生き延びたと見た方がいいのかもしれない。メイン・カルチャーがそんな状態だから、アンダーグラウンドに「透明人間」(アレックス・ロス)がはびこったのでしょう。「帝国」になってからまだ20数年と日が浅いから、変なおっさんを代表に選んじゃったりするわけだ。危なっかしい国ですよ。)

そして他方で、AAF Band は負けた日本だけじゃなく、勝った連合国にも、戦時中にプロパガンダが電波で降り注いでいたことを示している。1981年のインディー・ジョーンズ・シリーズのテーマ曲(raiders は盗賊のことだそうですね)の冒頭のトランペットは、明らかにセントルイス・ブルース・マーチを下敷きにして、グレン・ミラーのマーチが高音から駆け下りるところを低音から駆け上がる音形にひっくり返しているが、1932年生まれで日本流に言えば「少国民」世代のジョン・ウィリアムズがこういうマーチを書いたのは、この物語が第二次大戦中のナチスを敵役にする設定だからだろうと思う。ジョン・ウィリアムズは、亡命ユダヤ人のシンフォニックな映画音楽だけじゃなく、グレン・ミラーの AAF Band の戦時中のプロパガンダの音楽的記憶をも継承していることになりそうだ。

クワイン登場

認識論と論理学を鍛え直そうとすると数学基礎論を参照することになって、その先で知覚の心理学に逢着せざるを得ない。そういうストーリーでクワインが登場した。

知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

「ゲーデル問題」(笑)から「他者」論/言語ゲーム論へ、という柄谷行人の文学/批評でおなじみのポストモダンなアイテムが登場しない文脈に数学基礎論が収まっていて、このストーリーはなかなかいいんじゃないかと思った。

「美学」でニッポンの読書界・出版界に打って出る野心を抱いて概念分析とか感性の科学とか言うのであれば、背景にこれくらい骨太のストーリーを背負っておかないとダメなんじゃないか。というより、どうしてこんなにいいストーリー(ポストモダンへの対案)があるのに、自称「若手美学者」は、それを言わなかったのでしょうか。

美学の加速で東大美学研究室と西村清和を偉くしよう、みたいな先般の騒ぎは、結局、人文と自然科学・自然哲学が融合することを望まないケチくさいセクショナリズムだったのだろうか?

サミー・ネスティコ

コモンウェルス・ヴァージニアの地図上の位置を確認して、次はサミー・ネスティコである。

ビバップからクールの50年代に低迷したカウント・ベイシーがクインシー・ジョーンズらをアレンジャーに迎えて60年代に復活して、その流れで空軍バンドからスカウトされたのがサミー・ネスティコなんですね。

私は阪大で吹奏楽をやっていたわけだが、合宿の余興でビッグ・バンドをやろうということになって(その頃バーンスタインのシンフォニックダンスを練習していた)、「お前はピアノが弾けるのだから、この最初のソロをコピーしろ」と渡されたのがカウント・ベイシーのウィンド・マシンのカセットテープだった。無理ゲーである。

当時、軽音楽部ジャズ班がいつも学生会館の外で練習していて、待兼山キャンパスに常時鳴っていたのが、彼らの十八番のこの曲だった。高校時代テキサスに留学していた吹奏楽団のサックス吹き(シンフォニックダンスをやろうと言いだしたのも彼)が軽音から楽譜を調達したのでしょう。渡された譜面は手書きだったが、軽音のビッグバンドはベイシー/ネスティコをコピーしていたようだ(=30年越しで明らかになったささやかな真実)。

そんな「ニュー・ベイシー」の立役者はクインシー・ジョーンズということになっているようだけど、黒い重厚なアレンジですね。Soul Bosa Nova(大阪モード学園)とか Ironside (ウィークエンダー)とか、彼のオリジナルはスカした60年代の感じがする。

ジャズとしてはクインシー・ジョーンズが本筋なのかもしれないけれど、むしろネスティコの軽くキラキラしたアレンジでベイシーは70年代80年代を生き延びたんですね。空軍バンド出身というだけでなく、なるほどネスティコのほうが吹奏楽とは相性が良さそうだ。