メディア考古学

(九州人風のはったり話法は、また増田聡かよ、と思ったら吉田寛の発言だった。どっちがどっちだか次第にわからなくなるのは、何の兆候なのかしら。)

「VRの最大の特徴(あえて問題点とは言わない)は「その人が何を見ているのか、周りの人が分からない」こと、そして「周りの人が何を見て(して)いるのか、その人は分からない」ことである。

vs

「黙読の最大の特徴(あえて問題点とは言わない)は「その人が何を読み取っているのか、周りの人が分からない」こと、そして「周りの人が何を読み取って(して)いるのか、その人は分からない」ことである。

メディア考古学風な読書の歴史では、この種のエピソードは定番のような気がするが……。だから、個やペルソナを立ち上げるタイプのメディアがその普及の初期段階で発症する特性が際立ったとは言えても、それ以上ではないんじゃないか。そしてメディア論は、この種の初期症状の新奇さを面白がる通俗性に退屈するところから成熟するんじゃないのかなあ。

ピアノを一生懸命弾いている姿は滑稽だ、とか、管楽器を吹く人は顔を真っ赤にしてほっぺたがふくらんで、なんだかおかしい、みたいなことを「見る/見せる」だけでは、音楽の話が先へ進まないようなもので。

時間芸術とタイムトライアル

ひとつ前のエントリーは、

「受験勉強は、長文の論述問題(片山杜秀が日本史・世界史の入試問題に関する新書で取り扱ったような)を含めて、時間を区切って効率的なポイント・ゲットを競うタイムトライアルなのだから、幼稚園小学校から大学院まで、数度にわたる選別試験でタイムトライアルに最適化した人材を集めて、その頂点に学位を位置づける制度設計をすれば、タイムトライアルは反射神経という老化の影響を受けやすい能力のウェイトが大きいのだから、学位取得時が能力のピークで、あとは劣化を待つのみ、ということになりやすい」

という話だと理解していただいて差し支えない。

そして現在の日本の高等教育が、OECD各国の比較における順位とかいう駄弁とは関係なく、質の問題として見たときにはそのような方向で相当に洗練されていると言えるだろうから、日本の現在の大学教員は、文科省の標語を受け入れるかどうかにかかわりなく、実態として、スーパーグローバルな「タイムトライアル人材」なのだと思う。

これは、現在の日本の大学教員とその予備軍が、まさに吉田寛がそうであるような「ゲーム万能主義者」になるのは、何ら不思議ではない、ということでもある。

ところで、吉田寛は東大教養の表象文化論の卒論でジョン・ケージを扱ったらしい。「4分33秒」の作曲家であり、東大の先輩、庄野進が「枠と出来事」というモデルでその活動を解読しようとした人物である。

物理的時間に代表される「枠」を設定することで、作者や奏者の「意図」や「表現」を括弧にいれた豊かな音響的イベントが発生する、という庄野進の解釈モデルは、今から思えば、まさしく、タイムトライアルの詩学である。その意味で、ケージからビデオ・ゲームへ、という吉田寛の歩みは、彼を「タイムトライアル人材」だと想定すると、まっすぐな一本道なのかもしれない。

しかしそれじゃあ、ケージとゲームの間の大学院時代に吉田寛が取り組んだ「音楽」はどうか?

おそらくわたしたちは、「タイムトライアル人材」の人生観と、20世紀の「時間芸術」論の関わりを検討せねばならないだろう。

さしあたり、音楽を「時間芸術」というタイムトライアル人材好みの枠組で捉える視点は、録音技術(有限の物理的な素材に音響の特性を記録する技術)ありきであって、時間芸術が録音技術を生み出したのではなく、録音技術が音楽を時間芸術と捉える視点を可能にしたのであろう、という、「遠近法的倒錯」論が出てくるだろうが、それは、話のトバ口にすぎまい。

(ちなみに、吉田寛はビバップ全盛期のジャズ音源のコレクションが趣味だと公言している。ビバップとは無数のセッションの集積なのだから、ここにも、彼のタイムトライアル好きが露呈していると言えそうだ。)

「時間芸術」論とは何だったのか、そして、ゲーム的なタイムトライアルを参照したとき、どのように議論を更新できるのか。吉田寛先生にこそ、論じて欲しい気がしないでもない。

(「時間芸術」論という20世紀的な枠組からこぼれ落ちる音楽のあれこれに視線が届いていないとこの議論を十分に展開できないだろうから、吉田寛先生個人にとっても、一度は見切りをつけたはずの「音楽」なる面妖な営みに新たな視点から取り組むきっかけになったりはしないだろうか。)

むかし、あるところにゲームとおんがくをあいするおとこがいた。

ジョン・ケージというタイムトライアル・ゲームのようなおんがくで、トウキョウダイガクのキョウヨウガクブから、ガクシゴーをゲットした。

こんどは、ハンスリックのオンガクビロンのたくさんのヴァージョンをみくらべる「まちがいさがしゲーム」で、トウキョウダイガクのブンガクブからビガクのシューシゴーをゲットした。

ドイツということばが、ごひゃくねんぶんのおんがくのほんのなかをぼうけんするRPGは、ちょっとじかんがかかったけれど、ハカセゴーをゲットした。

「ハンスリックの形式概念が物理学や心理学を踏まえて鍛えられたことは確かだが、それは音楽が自然哲学と心理学に還元できることを意味しない」

とか

「音声中心主義を警戒するあまり、書かれた言葉のウェイトが過剰に大きく、ドイツにおいて、音楽と言語がリアルに鳴り響いた現場への配慮が欠けている」

とか

かんじをたくさんつかわれても、ぼくにはいみがわからない。

「ということで、ゲーム大好き人材さんはタイムアップでどこかに逝ってしまいましたから、みなさん、そろそろ音楽を再開しましょうか」

傲慢と劣化 - 学位年齢の構造と、大学経理が現在の日本の学位を消耗品に計上する可能性について

吉田寛や増田聡は、不都合な指摘を受けると読者の関心を逸らすべく大急ぎで別の話題を書き込む、という作法が身についているようだが、こういう態度に対抗するときには、【拡散希望】というタグをつけて大騒ぎしたりして、明快な謝罪を引き出すまで頑張るのが「炎上時代のSNS」の流儀だったりするのだろうか。

あなたたちは「協賛」と「後援」の使い分けを知らないの? - 美学者の「籠池」的発想を憂う - 仕事の日記

私はそういうのはくだらないと思うので、話をどんどん先に進める。

考えてみれば、書店が主催する美学書のブックフェアは第一義的に商売、経済活動であり、その企画の知的な品質は商品の付加価値に過ぎない。そのブックフェアの知的な付加価値に当該分野の学会が意義を認めて後援することは、もちろん十分にありうるだろうけれど、学会が意義を認めたからといって、経済活動が経済活動ならざる何かに変質するわけではない。企画者・主催者のプレイヤーとしてのミッションは、経済活動として、損益を出さないように、できれば十二分な利益が出るようにベストを尽くすことである。

当該の美学書フェアは、十分な利益とまで言えるのかはわからないが、話題性があり、経済活動として一定の成功を収めたのではないのだろうか? だとしたら、企画者は

「皆様のご支援のお陰で、無事、イベントを完了することができました、ありがとうございました」

と関係各方面にお礼を言うのが筋ではないか。そして、その企画者を支援した側は、

「あなたの努力のお陰で、美学はいままでにない広い人たちに関心をもってもらうことができました。お疲れ様でした。こちらこそありがとうございました」

と返礼して、これで無事にイベントが終了する。それが礼儀・社交というものではないのだろうか。

ところが、あとになって、「今だから言うけど、あのときの美学会の態度は最悪だったんだよね」と悪態をつくとか、「いいことをやっていれば、いずれ認められるから我慢しなさい」と慰めるとか、経済活動としての円滑な進行とは関係のないリングサイドの、あって当然などとはとうていいえない「オマケ」「余得」がついてこなかったことに対する不平と不遇感がくすぶるのは、いったいどういうことなのか。(随分と下品な、やらずぼったくりな被害妄想、被害者の立場に身を置くことが常に闘いを有利に運ぶはずである、という、戦後民主主義の一番悪い面だと言えそうな「衆愚」の発想に見えてしまうのですけれど……。先に私が、あなた方を「籠池」的だと形容したのもそういうことです。日本会議は、弱者の運動としての新左翼の手法を摂取した右翼活動であるとされており、彼はそこに連なる人物なんですよね。あなたたちの物言いは、それと似すぎて恐いです。)

思うにこれは、学問が、直接的には利益を生まないけれど、続けていれば最終的には名声と栄光を得る「お得な道」なのだ(そうであるべきだ)という傲慢だと思う。

この傲慢は、東大法学部を出て官僚を目指す人たちが「退職後の天下りをコミで考えれば官僚はお得である」とそろばんをはじくのに似ている。

ただし、学問は基本的に個人の事業であり、官僚制のような上意下達のヒエラルキーを構成しない。おのれの脳味噌が頼りである。そして人間の脳味噌は、生物としての劣化=老化が避けられない。

そこで私は、そのような脳味噌の劣化を名指すために「学位年齢」という概念を提案したい。学者のキャリアが学位取得からスタートするように制度を変えていこう(人文においても)というのが現在の日本の動向であり、現在の大学は、既にそのような学位取得者の働き口になっている。しかし他方で、学位申請は、国際的な標準に従って、原則として年齢制限はなく、従来の日本の教育・就労の慣習のように、何歳で大学入学、何歳で一斉に就職、という風にはなっていない。学者の脳味噌のピークと劣化には個人差が大きいと思われるので、実年齢と切り離して学者の生態を観察するためには、実年齢とは独立に「学位年齢」という概念が必要だと考えた次第である。

例えば、私自身は学位を取得しておらず、「学位年齢ゼロ」である。増田聡や大久保賢は、私と同じ時期に同じ大学研究室で学んだが、既に学位取得から10年以上経過しており、「学位年齢は10歳代」で「ひとまわり歳上」である。そして私は、増田聡がはやくも(かつての内田樹のような)「おじさん的怠惰」を打ち出したり、大久保賢が(まるで大昔の小林秀雄や晩年の吉田秀和のような)「老人の繰り言」スタイルで発言するのは、実年齢とは独立した「学位年齢の経年劣化=老化」であると解釈する。

一方、増田や大久保はおろか私より実年齢が上の伊東信宏先生は、先日もクルタークの「遊び」に関するレクチャーコンサートに登壇して、知識人としての若々しさを炸裂させていた。そして分野は違うが、稲葉振一郎は、にわかに「政治の理論」(内容的には政治における「力 power」とは何か、という、力学的に明晰な議論)を世に問うている。伊東先生は、まだ学位取得から5年くらいしか経っていない「学位年齢的な幼児」(まさに「遊びざかり」)であり、稲葉先生に至っては、いまだに学位を取得していない「学位年齢的なゼロ歳児」である。学位取得から十年以上過ぎた者の「劣化」だけでなく、実年齢とは独立した学者としての「旺盛な若さ・現役感」を説明するときにも、「学位年齢」の概念は有効であるように見える。

(人文・社会科学における学位制度の改革が、いまはまだ過渡期なので、正確に言うと、実年齢と「学位年齢」が独立している、とまでは言えず、学制改革にいちはやく飛びついた者は「劣化」が早く、性急に動かなかった者が劣化を免れている、という見方をしたほうがいいのかもしれないが、いずれにせよ、現行の日本の学位は、脳味噌の劣化という時限爆弾のスイッチ・オンのスタート地点である可能性が高いように見える。)

「学位年齢」の概念を導入することで、東大の学位取得者の傲慢は、より広い文脈で構造的に理解することが可能になると思われる。彼らは、早々に学位を取得して、脳味噌の劣化の時限スイッチを既に押してしまっている。タイムトライアルである。多少の無理は承知で傲慢をかますのは、時間制限による焦りと表裏一体なのではないか?

すなわち、「学位年齢」という補助線を引くことで、まだタイムトライアルのスイッチを押していない者の自由(稲葉)、トライアルの初期段階の楽しさの横溢(伊東)、時間制限の苛烈を自覚して焦りつつ成果を出そうとあがく傲慢(「ザ・東大」なメンタリティ)、滅びゆく者の諦念(阪大を出た増田、大久保)という風に、学者たちの生態を統一的に理解することができるのではないかと、私には思われる。

(「すべてはゲーム」、ゲーミフィケーション、というような、最近の大学人好みの世界観に多少寄り添いつつ話を進めたつもりだが、学位のある先生方は、こういう話はお嫌いですか?)

以上で私の思考実験的な主張の本論は尽きている。以下、若干の補足である。

(1) 時間制限の焦りが傲慢という形に結晶化するのは、学位取得者のコミュニティを、彼らが中学高校時代に体験していたのであろういわゆる「スクール・カースト」のアップグレート版として生きようとしているからではないか、とも思われる。すなわち、学位修得を、スクール・カーストにおけるオールマイティ、全能の力であるかのように思いなす、ということである。吉田寛が、近年、かなり露骨に「依怙贔屓」(後進の支援と称して自分が気に入った者だけを優遇しようとする態度)を打ち出すのは、部外者から見ると、滑稽なくらいスクール・カースト風である。

(2) 概念の発明は、しばしば、純粋な知的好奇心の充足で終わることなく、実生活に適用・応用されて提唱者の意図を越えて運用されることがある。

「学位年齢」という概念は、大学のように研究者を雇用する事業体から見れば、研究者を終身雇用すべき人材・耐久財としてではなく、経年劣化で最終的には消滅する消耗品として会計処理する可能性に道を開くかもしれない。現在の学者の給与体系は、多少修正されているとはいえ、まだまだ終身雇用が前提であり、就労年数とともに昇級することが多い。しかし、研究者が消耗品なのだとすれば、学位取得後間もない雇用時の年俸が最も高く、特別に考慮すべき事情がない場合は、就労年数とともに年俸を下げる契約形態がありうるかもしれない。この契約形態は、研究者がしばしば口にするような、「前途有望な若手を我々は積極的に支援すべきである」というスローガンを劇的に明快に実現することだろう。

この文章は、具体的な政策提言ではない。既に劣化がはじまっているのであろう中堅研究者は、よくよく考えて行政にコミットしないと、何がどういう結果を生むか、あとで泣いても知らないよ、という戒めとして、私はこの文章を書きました。

(以上)

恥の多い人生

実務はからきしダメだが口数が多く何にでも絡みたがる大学教員と、万博立候補に至る実務は完璧だがアイデアゼロの役人は、どちらがより恥ずかしいか?

こういうときに、50歩100歩、目くそ鼻くそ、というのだろう。

両者がいがみ合うばかりで仲間割れしているのが一番情けない。組織の歯車として最適化されたテクノクラートなのは同じなのに。

ゼロ年代の澱

吉田寛先生が、研究者としての立場・名声・業務形態が安定してやっとこれから、という態勢を整えたとたんに、身から出たさび、もしくは、否応なく染み出す澱のように、ゼロ年代ネット論壇の一番ダメな部分と言うべき詐欺的体質を twitter であらわにしつつあるのは、いったいどういうことなのだろう。

今の社会的な地位が身の丈に合っていないがゆえに、何らかの適応不全を起こしつつあるのだろうか。

御自愛ください。

あなたたちは「協賛」と「後援」の使い分けを知らないの? - 美学者の「籠池」的発想を憂う

吉田寛 Hiroshi YOSHIDA‏ @H_YOSHIDA_1973 14時間
責任者出てこいレベルだな、これ。
matsunaga s:3D @zmzizm
あとは言っちゃいますが、加速のときに某B学会に協賛お願いしたら断られたみたいなのがあって、それで逆にやる気でたのはありますね

コンサートのチラシには「主催」「共催」「助成」「協賛」「後援」という文字がずらりと並ぶが、これらの言葉は、通常、イベントの運営と具体的に紐付けて使い分けられる。

主催・共催は自明だろう。助成も、補助金・競争的資金を取るのが日常な研究者なら意味はわかるよね。

「協賛」には、通常、物的・金銭的な支援を受けた団体等がクレジットされる。コンサートのために、楽器会社がホールにあるピアノとは別に自社の新製品をプロモーション目的で用立てた、とか、会場となる音楽ホールが公演に何らかの意義を認めて会場経費の割引等の便宜を図ってくれた、とかいう場合だ。

所属機関(大学とか)や所属する学会、任意団体、同窓会等から、当該事業が団体のメンバーにふさわしい活動であることを認められた、という場合は、「協賛」ではなく「後援」のクレジットを使う。そして学会や任意団体(ワーグナー協会とか)は、会員の「後援依頼」を取り扱う基準や手続きを整備していることが多い。

「協賛」と「後援」の使い分けは、イベントのマネジメントの実務において、「既に常識」と言っても差し支えないかと思います。(「音楽学のメディア論的基礎」などという一部研究者のマニアックな話題よりも、はるかに、常識化の度合いが高いです。イベントに許認可や助成申請等が絡む場合には、言葉を正確に使って書類を作らなければいけませんから。)

森くんは、美学会に「後援」ではなく「協賛」を求めたのだろうか? 物的・金銭的な支援もなしに、任意団体が「協賛」のクレジットを振り出すことは通常ないと思う。どうして、「後援」ではなく「協賛」にこだわったのだろう?

また、こうした「協賛」と「後援」の使い分けは、一般人にはあまり知られていないかもしれないけれど、吉田寛先生の周囲でいえば、生活をともにしていらっしゃるパートナーさんは大阪音楽大学楽理科をご卒業なのですから、一度や二度はコンサートにかかわったことがおありでしょう。おそらく、こうした言葉の使い分けをご存じかと思うのですが……。

自分のプロモーション活動でそれらしい名前ををちらつかせて物事を有利に運ぼうとするのは、やり口が今話題の籠池と同質だと私には思えるのですが、違いますか。

協賛・後援といった語彙は、そのような「脅し」としての用途を抑止するために、明快に使われなければなりません。実際の運営と紐付けて、常識的な用法を心がけるべきです。

学会がそういう社会常識を知らない人を無制限に支援してしまうと、むしろ社会に迷惑をかけて危険だと思います。

大学生の子供だましな言葉遊びがそのまま通用するほど世間は甘くない。東大生は、世間を巧みにあやつっているつもりで世間に利用されている。parallax view のトリックといっても、実体はそれだけのことではないでしょうか。

写真と音楽学といわゆる「遠近法的倒錯」のこと

楽譜の筆跡やインクの色に着目した「科学的」な楽譜校訂であるとか、そもそも、音楽文化における記譜・楽譜の意義であるとか、という議論も、対象は中世以来の写本等まで遡るけれど、おそらく「写真以後」の発想だろうから、音楽学は、録音技術や異文化との接触(ただし後者は20世紀の現象と言うより十字軍や大航海時代やもっと前からずっと続く「長い周期」の歴史現象であり、20世紀だけをクローズアップして論じるのは性急だろう)だけでなく、写真を前提とするメディア現象だと思う。

しかし、そもそも近代音楽学は、芸術学のヒエラルキーのなかで美術史をモデルにして整備された経緯があり、写真からの影響と、写真によって誕生した美術史学からの影響を切り分けるのはやっかいだと思います。140文字で事態を簡潔に言おうとするから議論を単純化したのだろうけれど、音楽学というディシプリンのメディア論的基礎は、「既に常識である」とまでは言えないと思う。

あと、「メディアが知を更新する」というような「遠近法的倒錯」の指摘は、最初の「きづき」におけるインパクトがある反面、「ここにもそれがある」「あそこにもそれがある」という風に、その先の議論が金太郎飴になりやすい。(「言語論的転回」の指摘や、カルスタ・ポスコロの「伝統はすべて近代の産物である」論がそうであるように。)

美術史の誕生における写真の意義を指摘した論考が1989年に出ているそうだが、ここで問われるべきは、おそらく、「なぜ1980年代に人は知に対するメディアの関与を自覚するようになったのか」ということだと思う。

近代が抱える「遠近法的倒錯」を指摘するのが得意なカルスタ、ポスコロ、メディア論は、それ自体が1980年代的な知であることを忘れがちである。そこには、もうひとつの「遠近法的倒錯」の危険があると思います。

ところで、ここまでこの文章では、参照元に従って「遠近法的倒錯」という柄谷行人語を使ってきたが、この言葉は英語でどういう風に言えばいいのでしょうか?

柄谷は、遡行 retrospective によって遠近法 perspective を批判する発想をニーチェに学んだことを臭わせていたかと思いますし、ニーチェの論争的な文体からすれば、こうした主張が「倒錯 perversion」の語と結びついた用例を見つけることができるのかもしれませんが、「遠近法的倒錯」の語は欧米語と対応させづらいように思います。perspective perversion と言っても、たぶん、通じませんよね。

Wikipedia 英語版の Kojin Karatani の項目には、スラヴォイ・ジジェクが柄谷行人から「parallax view」のコンセプトを借りた、との記述がありますが、もしかすると、柄谷の著作の英語版では、日本語の「遠近法的倒錯」の語が「parallax view(錯視ですね)」と訳されているのでしょうか? つまり、日本語圏における評論家柄谷行人はニーチェ風に「倒錯」を語る人だが、英語圏に流通する柄谷行人は、perversion を表に打ち出してはいないことになっている、とか。

「遠近法的倒錯」といういわく付きの概念は、書誌学的にスクリーニングして、別の言い方にパラフレーズしたほうがいいんじゃないだろうか。

大阪の子供はどこにいるのか?

日曜日に新大阪に行く用事があったので、ついでに御堂筋/北大阪急行沿いの公園を回ってみた。

千里まで行くと街の高齢化を実感せざるを得ないのだが(私が住んでいる団地も同じです)、梅田・新大阪からそれほど遠くないあたりは休日の親子連れや中高生がたくさんいて、公園が賑わっている。なるほどこれが、郊外から都市近郊に人が戻っている、と言われる現象なのかと実感できた。地価が投機的に高騰した80年代までの経済状況は、やっぱり異常だったんですね。

母が住む八尾も若い親子が多いそうだ。「少子化」というけれど、それは統計的に均すからそういう数字が出るのであって、十分な数の子供が暮らしている地域とそうでない地域の差が大きくなっているのではないだろうか?


子供がたくさんいる地域の公園や歩道は公共交通機関などの導線もよく整備されていて、「大阪は公共がだらしない民都である」というのも、最近のことをよくわかっていない団塊世代あたりまでのボケ老人の妄言ではないかという気がする。北摂は転勤族が多く、しがらみなくサバけた風に街を設計できるのかもしれないなあ、と思う。

こういう地域が大阪維新の「若さ」を公人に求めたのは、橋本叩きの際に言われたような「マスメディアによる煽り」で片付けることはできないかもしれない。安倍や小池を支持する東京だって、似たような事情があるんじゃないの? 「言説が社会を作る」みたいな枠組に囚われたリベラルには、説明できそうにない事態が、今の都市周辺で起きているような気がします。

そしてやはり、このあたりに来たら淀川河川敷に行かねばならぬ。どうやら、私はこの景色が本当に好きみたいです。今回はJRの鉄橋の下まで歩いてみた。

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(大阪の老人がいつまでも現役にしがみつく気風は、ひょっとするとキタの文化というより、地域の旧家が残る泉州河内の習俗ではないかと、不意に思いついたのだが、これが適切な推測なのか、今はまだまったくわからない。)

大阪のメセナと公共の現在

びわ湖ホールの小菅優リサイタルの批評を京都新聞に、いずみホールのイザベル・ファウスト、ジャン=ギアン・ケラス、アレクサンドル・メルニコフの三重奏の批評を日経新聞大阪版に書きました。2016年度の終わりに、ここ数年の、いずみホールに代表される小中規模ホールが関西楽壇の新時代への希望を託された最後の良心であり台風の目であるかのように勘違いされていた時代を総括する良い機会になったと思っております。

震災による日本全土の歌舞音曲自粛ムードと大阪維新による「文化芸術」イジメ、この国はもはやデフレから未来永劫脱却できないのではないかという不安と焦り、これらに音楽家・聴衆双方の世代交代(団塊世代の表舞台からの引退)が重なって、ここ数年、関西のクラシック業界はもうダメなんじゃないか、少なくとも、オペラやオーケストラは自前でやらなくても外来や東京に任せればいいんじゃないか、リサイタルには、外来であれ地元音楽家であれ、もうお客さんはこないんじゃないか、という停滞感があったように思う。

(ゼロ年代に関西を熱狂させた大植英次は9年で大阪から逃げ出しちゃったし、シンフォニーホールは売りに出されるし、新しいフェスティバルホールはあんまりクラシック音楽をやらないし……。)

いずみホールもウィーン楽友協会との提携を一度止めて、身の丈に合った自主企画を模索して、その代表がモーツァルトとシューベルトの特集であり、同じ時期に、カジモトから小菅優のベートーヴェン・ピアノソナタ全曲演奏の大阪公演のマネジメントを引き取った。広報営業面でも、SNSを活用した新しいタイプの広報とオンライン予約をリンクさせて、このホールは、あたかも古い業界に見切りを付けて、新しい可能性に船出するかのようなイメージで突っ走った。

いずみホールがベートーヴェンのソナタ全曲を毎回出演者が交替するリレー形式で10年くらい前にやったときには、ピアノの先生や子供たちが通し券を買って毎回盛況だったのが、今度の小菅優の初回の客席は閑散としていた。ホールの広報担当者がネットの個人アカウントでなりふりかまわず顔と名前をさらして、「優ちゃんをみんなで応援しよう!」キャンペーンを張ったのは、このホールが古い体質を見限って新しい聴衆を開拓しようとする典型的な動きだったように思う。

(そしてこの動きは、偶然なのか意図的なのかわからないが、「朝比奈/大フィルのシンパや音楽クリティッククラブのお爺ちゃんに代表される男性優位の関西クラシック音楽界で、いずみホールは「女性による女性のためのコンサート」を推進します」と旗を振っているかのようにも見えた。世間でさかんに言われた「女子力」で難局を乗り切ろうとしている雰囲気があったわけだ。当時、関西の新聞各社の音楽担当記者もほぼ全員女性だったしね。)

さてしかし、どうやら親会社が元栓を絞ったことが背景にあったらしいこの「危機」が一段落したということなのか、いずみホールはウィーンとの提携を再開するとアナウンスしているし、小菅優は、ベートーヴェンを全曲弾いた実績で立派な中堅になって、ベートーヴェンを他の演目と組み合わせたプログラムでツアーを組み、びわ湖ホールでは、普通に、昔からのピアノ好きのお客さんたちが聴きに来ていた。

「関西クラシック業界の危機」なるものは、様々な偶然が重なってそう見えていただけの一過性の凪だった面が少なからずあるようです。

だとしたら、小菅優のベートーヴェンは、全曲演奏シリーズ進行中に騒がれていたのとは違う態度で、その意義を考え直す必要がある。

当時、いずみホールが仕掛けた騒ぎの渦中にいた大久保賢のような人たちが、そういう「総括」をしないで、そのとき騒いで騒ぎっぱなしであとは知らんぷりを決め込む、などということを私は許さない。

小菅優は本物の音楽家であり、森岡めぐみや大久保賢が対等に口をきくのはおこがましいくらい人間としても音楽家としても器が大きい。にもかかわらず、彼女と彼は、年若い女の子を年長者が導くかのような態度で小菅に接した。(あの人たちは、いつもそういう風に無根拠に態度がでかい。)それは腹立たしく屈辱的な光景でした。小菅がスケールの大きい音楽家であることは、ベートーヴェン・シリーズ初回を聴いた者にはわかっていたにもかかわらず、彼女と彼はそういうことをした。そして小菅の真価は、いまや誰の目にも明らかになりつつある。きっちり落とし前をつけていただきたい。

京都新聞に小菅優リサイタルの評を書いたのは、そういうことです。

いずみホールの自主事業は、ウィーンとの提携という大看板(そもそも建物が楽友協会ホールを模している)を取り去ると、実質的には、80年代以来の商業化した古楽(ピリオド・アプローチとかHIPとか言われるような)と現代音楽が両輪である。80年代から古楽の旗振り役をずっと続けている礒山雅と、ポスト前衛時代の日本の作曲業界で一番元気のいい西村朗の2人がこのホールの音楽面の相談役なのだから、それは何ら不思議なことではないし、見ていればすぐにわかることである。

ただし、停年のある公的機関や企業の役職と違って、こういう仕事はいくつになってもできる。そして今では礒山も西村も還暦を超えている。いずみホールでこの3月までランチタイム・コンサートを続けて今回が最終回となる日下部吉彦は、さらに上の世代だ。朝比奈隆風の古い老人パワーへのアンチであるかのように活動を展開してきたいずみホールが、今では、もうひとつの老人力をもり立てる態勢になりつつあるわけで、フェスティバルホールの大阪フィルの指揮者は尾高忠明、シンフォニーホールの大阪交響楽団には外山雄三、関西フィルには飯守泰次郎がいるわけだから、大阪では、主要民間クラシック音楽団体が、それぞれの老人力を競い合う態勢になりつつある。いずみホールは、むしろ、老人力競争の先端を走っていると見えなくもない。

(大阪の自治体には橋本や松井の若い維新の会がいるので、現在の大阪における「官」と「民」は、強権的なポピュリズムとリベラルの闘いというより、ルールに従って若返りつつある「官」vs自己資金で団塊老人が生きながらえる「民」の構図になりつつある。佐渡裕を擁する兵庫、広上・高関・下野の三羽がらすの京都、沼尻竜典の滋賀と比べたときの大阪の沈んだ感じは、むしろ、「民」の団塊老人たちが原因ではないだろうか。大阪の民間文化を老人が支配する体制は、朝比奈隆の頃も今も、基本的には変わっていないように見える、ということです。)

ここ数年にわかに注目されて頻繁に来日しているイザベル・ファウストは、HIPと現代音楽をごく自然に咀嚼できる知性と技量と真摯な人柄が売りの人だから、いずみホールがシューベルト特集の目玉企画をイザベル・ファウストに託したのは自然の成り行きだろうと思う。ホールを取り仕切る2人の老人のどちらにも気に入られるであろう「養女」が見つかった恰好である。

ところが、彼女に任せたら、ものすごく渋い演目を、びっくりするくらい地味なスタイルでまとめて来たわけである。ロビーでは、休憩中に中年男子たちがまるでネット掲示板かと思うマニアックな話題を熱心に語り合っていたので、広報営業面でも、近年のいずみホールの取り組みが功を奏して、「ネットベースの新しい客層」(平たく言えばクラオタである)をきちんとつかんでいたのだろうと思うけれど、しかし、これでよかったのでしょうか?というのが、この公演についての私の感想です。

批評の中身は読んでいただければわかると思うので、ここでは繰り返さない。

しかし、いずみホール公式ツイッターの「なかの人」と、この公演の解説をプログラムに寄稿した堀朋平には言いたいことがある。

140文字という膨大な文字数があるにもかかわらず、外部著者の署名入りの批評の紹介ツイートで執筆者名を落とす、というのは、どういうことなのでしょうか? もしかすると、「なかの人」は日本語が不自由で、文字を削る力がないのでしょうか?

潤沢なスペースを与えられているにもかかわらず、コンサートのパンフレットの曲目解説にあってしかるべき情報をばっさり落として、自意識過剰で居住性の悪いデナイナーズ・マンションみたいな文章を書いてしまった堀さんともども(3人の作曲家の晩年の三重奏曲、というのが選曲のコンセプトなのだから、各曲の作曲年と、それがその作曲家の生涯のどのような位置にあるのか、ということが、読んですぐにわかるように文章を工夫しないとダメでしょう)、わたくしが715文字(13字×55行というのが日経の毎回の指定文字数です)に多くの情報を盛り込むためにどのような技術を駆使しているか、それくらいのことは読んですぐにわかるくらいになってから出直していただきたい、と私は本気で呆れております。

私の批評は、「メセナをディレッタントのナルシスティックな遊び場にするな、ばかやろう」の精神で書かれております。

いずみホールは、神経過敏すぎるのではないかと思うくらい生真面目なところがあるかと思えば、お客さまから「杜撰」とたしなめられてもしかたがないのではないかと思うくらい緩いところがある。そのチグハグかもしれない二面性が「社風」であり、そこが愛されているのかもしれないけれど、それが事業の足かせになる局面があるとしたら勿体ないことだと思う。

私企業が自社資金で事業を展開しているのだから、そのミッションに他人が異議を唱えても仕方がないし、私はそんなことを言ってはいない。どうぞ自由にやってください。

でも、事業体が公式に掲げたミッションがどのような結果を生んでいるか、実際の運用が円滑かどうか、というのは、公然と外部から見えているし、そのような透明性・公開性を担保するのが公益事業というものだろうから、そこは、第三者による自由な論評の対象となっていいはずですね。

こうして、メセナ事業が「批評」の対象になる。

「批評」は、メセナ事業を行っている財閥系財団と新聞社との企業同士のおつきあいとして紙面に掲載されているわけではないし、だから、主催企業が公式コメントとして発信する文章が主催企業から掲載新聞社への「ありがとうございました」という礼状の文体に収まってしまい、批評を個人の文責で寄稿している外部著者名が欠落するのは、それでいいと思うのもあなたがたの自由ではあるけれど、非礼の疑いがあると思います。一般論として。

大正区の昭和山と大阪の怪物たち

運河に囲まれた大正区は、大正時代に大阪市街地と結ぶ大正橋が敷設されて、この橋にちなんで大正区となったらしい。環状線駅は大正橋のそばで、大阪ドームができたりしてにぎやかだが、区役所は南にあって駅から市営バスが通っている。千島とよばれるそのあたりが、材木置き場や製材所でかつて栄えた島の中心だったようだ。

(中上健次が描いた紀州の木こりたちの切り出した木材が船でここまで運ばれていた、ということだろうか。)

製材業が撤退した跡地に、万博の準備で北へ掘り進めた大阪市営地下鉄工事の土を盛った山があって、1970年当時は標高33mで、大阪一高い「港が見える丘」だったらしい。その後、ごみ焼却場の灰を積み重ねた鶴見緑地の鶴見新山(命名当時は標高45m、現在39m)に高さで抜かれてしまったそうだが……。

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北摂豊中というより大阪の北のはずれ(地下鉄江坂や阪神野田とも近い)の高速の脇で飛行機が真上を飛んでゴミが埋まっている土地の活用方法の是非(国有地なのだからダンピングしてはいかん、というのが国の株主と言うべき納税者感情なのだろうけれど、正価では買い手がつかないから空地だったわけであって……)が連日話題になっているが、大阪は狭い土地に無理に工場を造ったから後始末に苦労している、ということなのでしょうね。大正から昭和にかけては阪神間の私鉄沿線にかつての商都を担った人たちがみんな逃げたし、脱工業化による起死回生の決定打と期待された北摂千里丘陵の開発で、かつての工業地域に山ができた。

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(「地盤沈下」が比喩ではなくリアルな問題としてクローズアップされた昭和後期の大阪では、朝日放送が福島のテレビ塔を自慢したり、わずか33mの標高を大阪一と称したり、これまた比喩ではなくリアルに、「高さ」が熱望されていたのだろう。そうした市街地再開発の末に現在まで生きているのが、地上の自動車と自転車の自由気ままな走向を避けて歩行者が地下に潜るアリの巣のような地下道、地底人の如き縦横無尽な「低さ」(←ポケモンGPSの圏外であるような)の活用なのは皮肉と言うしかありませんが。そして梅田の新地周辺のポケストップが連日満開なのは、モンスターたちが大阪の人類を地下から再び地上へ呼び戻そうとしていると言えなくもないかもしれませんが。)

現在では、1990年の花博で新設された地下鉄鶴見緑地線が、その標高33mの昭和山の大正と標高39mの鶴見緑地を直結している。心斎橋で乗り換えると御堂筋線/北大阪急行で北摂千里ともつながっているのは、偶然なのか、歴史の必然と言うべきなのか。

その千里ニュータウンが高齢化・過疎化しつつあるのは、既に広く知られているところだが、ナイアンティックの開発したアルゴリズム(人間による介入の痕跡は明らかではあるけれど、基本的にはAI的に何かを学習しながらメンテナンス、自己補正を繰り替えしていると思われる)は、ニュータウンというような人類のスローガンを横目に、開発以前からある大きなため池のほとりにモンスターのささやかな巣を作っている。

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ポケモンたちは、普通の観光ガイドには出て来ない大阪の色々な景色を見ているよ。