モーツァルトの交響曲第40番

曲目解説の仕事で、モーツァルトの「40番」の楽譜を久しぶりに見直していました。この曲の解説を書かせてもらうのは今回が初めてで、色々気付いたことがあるのですが、具体的な分析は、内容的にも分量的にも、とてもパンフレットの解説には盛り込めそうになかったので、以下、演奏会の予習用(?)のサブテキストのつもりでここにアップします。

演奏会は、京フィルの定期公演です。

京都フィルハーモニー室内合奏団第151回定期公演「古典派への道程vol.6」
3月18日(日) 14:30 開演、京都コンサートホール小ホール。
指揮:有田正広、トランペット独奏:御堂拓己、コンサートマスター:釋伸司

  • モ−ツァルト セレナード第13番 ト長調「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」K. 525
  • ハイドン トランペット協奏曲 変ホ長調 Hob. VIIe-1
  • モ−ツァルト 交響曲第40番ト短調 K. 550
http://homepage2.nifty.com/kyophil/schedule/2007_03.html#2007_03_18

演奏会のほうも是非。

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ということで、モーツァルトの「40番」の分析風のメモです。

そもそも「楽曲分析」というのは何なのか、どういうやり方・立場が妥当なのか、というのは論争の多い面倒な話ですね。とりあえず、一昔前のドイツ系の分析では、「理想の聴き手」ということがよく言われていました。

理想の聴き手=分析対象となる曲を聴くのは初めてだが、その曲の当時の音楽様式を熟知しているような聴き手。

いってみれば、分析というのは「その曲の初演を、当時の音楽通が聞いたらどんな風に感じるだろうか」という架空の思考実験だ、ということかと思います。

以下、曲に対する「私」の感想という文体で書いていますが、これは、自分自身の能力や立場もわきまえず、まるで「18世紀末の音楽通」であるかのようなフリをして、いい気になって書き散らした文章ということです。いわば、憑依した「イタコ」の台詞みたいなもの。信じるも信じないも、ご利用は自己責任、という性質の文章だとお考えください。

楽曲分析をめぐる原則論は、機会があれば、またいつか書きます。

●第1楽章

冒頭の「ラソソ、ラソソ、ラソソーミ」は非常に有名ですが、改めて考えてみると、「歌」と呼ぶには華奢だなあ、と思いました。最初のため息のような身振り(es d d)を繰り返して、引き延ばすような主題。これはベル・カントの滑らかな呼吸で歌う旋律ではないですね。例えば、オペラ座の主演歌手に、「これが今度のメインのアリアです」と言ったら、こんな地味な歌は嫌だ、と突き返されてしまうかもしれません……。

ため息のような身振りを繊細にパラフレーズして、まるでかじかんだ手に息を吹きかけて温めるように音域を少しだけ上方に広げて……、管楽器が入ってくるまでに、ちっぽけな身振りから計12小節を作るのは作曲家の「技」だなあとは思いますが、この主題が華奢であることに変わりはない。

旋律がいきなり入ってくるのではなくて、ヴィオラの刻みで下準備するのも、華奢な印象を強めているんじゃないでしょうか。自分が先頭を進むのではなくて、お付きの人が先回りして赤絨毯を敷いて、その上を歩くような感じ。ただし、お付きの人の下準備といっても「わずか3拍」なので、どこか落ち着かないのは否めず、やや不穏な始まり。

こんなに華奢で希薄で不安げな主題からオーケストラの大がかりなソナタ形式を組み上げてしまうというのが、この楽章における作曲家の挑戦だったような気がします。

最初のヴィオラの下準備(赤絨毯?)だけでなく、このフレーズの最後のところも、木管がフォローしてようやく「オチ」がつく形ですし、次の主題の繰り返しは、管楽器が背後で影のようにサポート……。主題の周りにとてもたくさんの「取り巻き」がいるなあと思います。まるで、「挙動不審の御曹司/お嬢様」を周りがガードしている感じ。

特に面白いと思ったのは、展開部と再現部の始め方。管楽器が「つなぎ」のフレーズを吹いている間に、例のメインテーマは、まるで裏口からこっそり入るみたいに、いつの間にかはじまっているんですね。

常に同時に複数のことが起きていて、こういったフェイクやミスディレクション(こっちが重要と見せておいて、実は別のところで大事なことが起きている)が頻発する音楽。この楽章が「シンフォニック」になりえているのは、主題そのものというより、周囲の「取り巻き」のおかげ。そういう作り方がこの楽章の特徴ではないかと思いました。

「上に立つ者」が頼りないと周りは苦労します(笑)。

●第2楽章

今まで思い違いをしていたのですが、この曲は8分の6拍子なんですね。2拍子と3拍子の複合拍子。それなのに(例えば、バスが付点四分音符で2拍子を刻んで、ヴィオラが八分音符でそれを三分割して刻むというような)はっきりしたビートを示す場面がほとんどない。拍子の輪郭をぼかすように作られているのがポイントかな、と思いました。

最初の部分はヴィオラ→第2ヴァイオリン→第1ヴァイオリンの模倣進行なので、リズムより、線の組み合わせ方が気になってしまいますし、その後、旋律のクライマックスは、1、4番目の「重い」はずの八分音符を「タラッ」という三十二分音符でスカして、2、5番目の八分音符に強いアクセントが落ちる。で、このあとは、ほぼ楽章全体にわたって、この「タラッ、タラッ……」という、なんともカウントしづらい三十二分音符の綱渡り的な音型が鳴り続けるんですね。

緩やかな8分の6拍子なのに、決してそのリズム構造が露呈しない曲。明らかに「そのこと」が話題になっているのに、決してそのものズバリを名指さすことのない「婉曲話法」で最後までいってしまう過剰なまでに優雅な会話。そんな印象を持ちました。

この婉曲なモヤモヤ感を開き直って楽しむ覚悟をもたないと、この楽章を演奏するのは大変そうですね。

●第3楽章

この楽章は、(解説にも少し書いたのですが)メヌエットとしてはフレーズの構造が「異常」ですね。

主部の第一部(リピート記号まで)は、(3+3)+(4+4)小節といういびつな構造。メヌエットは、2小節6拍を単位にして踊るダンスだったと聞いていますから、最初の(3+3)は、踊れないフレーズということになりそうです。しかも最初の小節は第1拍と第3拍にアクセントがあるので、「2拍+2拍+2拍」の大きい三拍子(ヘミオラ)に聞こえます。3小節のフレーズが、「大きい三拍子(2+2+2)+小さい三拍子(1+1+1)」という変拍子であるかのように書かれているわけです。

(トリオの第一部も、説明が煩雑になりそうなので省略しますが、最初の弦楽器が常識的な8小節(2+2+4)ではなく6小節(2+2+2)の寸足らずで終わっていて、これを木管が微妙な引き継ぎ方をしているというように、主部とは別のやり方で、聴き手を道に迷わせるトリックが仕掛けられているように思います。)

第2楽章が、ベースになる拍子の構造を隠しつづけようとする音楽だったのに対して、第3楽章は、拍子の複数の解釈可能性をこれ見よがしに目の前にちらつかせる「リズムのだまし絵」みたいな音楽ですね。

●第4楽章

なんといっても展開部の楽譜を見ると驚愕します。ぼんやり眺めているだけだと、ものすごい勢いの転調についていけなくなりそうですし、気がついたら、展開部のクライマックス(管楽器が主題を演奏するところ)は、ほとんどの音符に臨時記号が付く異様な譜面になっているんですね。

展開部の最初の部分(レチタティーヴォ風にユニゾンで主題を演奏するところ)では、提示部の終わりの変ロ長調(フラット2つ)から、一旦ニ短調(フラット1つ)と属調方向へ振っておいて、そこからヘ短調(フラット4つ)まで順番に降りていく。(転調は、フラットが一つずつ増えていく4度関係のゼクエンツを使っていて、歯車がガチャンガチャンと動くみたいに論理的。)

B/b - d -> g -> c -> f

ここで弦楽器のフガートが始まるのですが、そうすると、今度は猛然と逆方向(フラットが減る=シャープが増える方向)の転調。2小節ごとに転調してます。十数小節でハ短調(フラット3つ)から猛スピードでロ短調(シャープ2つ)まで来て、その勢いでジャンプするみたいに一挙に嬰ハ短調(シャープ4つ)へ。飛行機が滑走路から飛び立つみたいな感じですね。

f/As -> Es/c ->g->d->a->e->h -> cis:(D t)

ほとんどの音符に臨時記号が付いているのはこの部分です。

(地の底(ヘ短調のフガート)から魔女がぶわっと急上昇して、空を駆け回って大暴れ(嬰ハ短調のクライマックス)みたいなイメージなのかもしれません。あるいは、ゆったり力を貯めて一気に逆方向へ疾走というのは、ジェットコースター・絶叫マシン的とも言えるかも。)

そしてこの嬰ハ短調平面でひとしきり盛り上がったあとで、「着陸態勢」に入って、今来た道を逆戻りして再現部へ。

cis ->fis->h->e->a->d-> g:(D t)

ほぼ4度/5度の関係しか使っていないので、理詰めでギリギリと責め立てるように聞こえる展開部ですね。サディスティックな音楽。

モーツァルトは、音楽に関して、ちょっと「キレた」感じの恐い人だったんだろうという気がしてきます。ロココでも多感様式でもない18世紀末の「前衛音楽」。

考えてみれば、5度関係の転調は、論理的には無限にどこまでも続けられるので、メモリを食いつぶすまで増殖するコンピューター・ウイルスみたいなことができてしまうわけで(シューマンやチャイコフスキーの展開部が強迫神経症みたいに機械的転調で暴走するのにも、ちょっと似たようなものを感じます。モーツァルトがハッカー的にやってみせたデモに、ロマン派の人たちは本気で感染してしまったのでしょうか……)、

理論的可能性を本当に「曲」にしたところが恐いと思いました。

「啓蒙」された人たちが本当に王様の身体をギロチンにかけたり、カントが「コペルニクス的に転回」して、「もの自体」を探り当てたりしたのと同じ時代の雰囲気を感じてしまいます。

理性の暴走は本当に恐ろしいものです。

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「40番」が第39番と第41番(「ジュピター」)とあわせた三部作として作られたらしいことは有名ですが、前後に長調のしっかりした本格派交響曲があるから、中間の「2曲目」では、実験的なことを思い切りやっていい、この際思い切りやってしまおうと思ったのかもしれませんね。改めて調べてみたら、予想していた以上に過激な音楽だとわかって驚きました……。