『日本オペラ史1953〜』の関西歌劇団関連

[オペラ「修禅寺物語」の成立史に関する追記あり。]

増井敬二『日本オペラ史〜1952』刊行から8年。続編が出ていたんですね。

日本オペラ史1953〜

日本オペラ史1953〜

『〜1952』は、日本におけるオペラの記録に残る公演すべてを、可能な限り憶測ではなく資料に即して、しかるべき文脈を構成しながら語ろうとしている本。日本が敗戦後GHQ占領下にあり、「夕鶴」が初演された年で終わっているわけですが、

([12/12 補足]刊行が、東京音楽学校における「オルフォイス」初演から百年目の2003年で、1952年はその前半の50年。一見半端に見える「1952」という年号は、この時点で意味のある区切りだったのだと思います)

この方針で続編を出そうとすると、再独立後の創作オペラ運動と海外作品の日本初演ラッシュの1953〜1962年で一冊。ベルリン・ドイツ・オペラを皮切りにする海外オペラハウスの引越公演と大分にはじまる地方オペラを扱う1960年代、70年代で一冊。オペラ・ブームの80年代90年代で一冊……というように、ものすごいことになると思われ、各巻のページ数も倍々に増えていくに違いなく、増井さん亡き後、昭和音大オペラ研究所はどうするのだろうと思っていたのですが、結局、現在に至るまでを一冊に収めたんですね。

第3部の資料編が、大きな団体については主要公演のみ収録ですが、日本のオペラ公演の全体像を見通す基本資料となりそうな労作と思いました。関西歌劇団の公演リストを見ると、各団体の記念誌などをただ引き写したわけではなく、公演の名称など、公演プログラム等と照合する手間のかかる作業を経て正確を期している印象で、こういうのは、個人ではなく、機関研究としてでなければ、できることではないと思いました。

      • -

第1部の1953年から現在までを10年ごとに区切った概観は、NHKイタリア・オペラなどで増井敬二さんの遺稿が使われるなど、『〜1952』との連続性を保つ形をとってはいますが、だからこそなおさら、モーツァルトのレクイエムをジュスマイヤーによる補作で聴いているような感じを抱いてしまいました。

でも、「あとがき」をみると、当初から、1953年以後の記述は増井敬二さんではなく、もともとは佐川吉男さんが書く予定で、2000年の同氏逝去で、関根礼子さんに一任されたようですね。本の構成も、『〜1952』のように網羅的なものを作る予定はなかったということでしょうか。

あくまで関根先生の「私が見た」戦後オペラ史であって、関根さんの個人史や立ち位置が色濃く滲んだ、「同時代を生きた識者の証言(のひとつ)」だと思います。

そして、そのような「個人の見解」をまとまった形で残してくださったことは基調で有益だとは思いますが、その「個人見解」度合いを正確に捕捉する意味でも、事実関係が曲がってしまっている部分は、ご指摘させていただくのがいいかもしれないと思いました。

以下、関西のオペラや大栗裕に関連して、気がついたことだけ、メモします。

(1) オペラ「修禅寺物語」1953年初演説?!

民間放送のABCは、開局3周年記念で清水脩(1911-1986)に委嘱した《修禅寺物語》を1953年11月18日に放送して芸術祭賞となり、翌年11月4〜6日に大阪朝日会館で初演。(33頁)

この作品が1953年に放送初演されたとの見解が示されています。別の箇所でも、

新歌舞伎台本(岡本綺堂)に作曲(清水脩)した《修禅寺物語》の舞台初演(1954)、[……](44頁)

というように、1954年の関西歌劇団による上演が初演ではなく、「舞台初演」とわざわざ断り書きされています。

「修禅寺物語」は「夕鶴」(1952年初演)に次ぐ戦後創作オペラの事実上の「第二弾」として初演は相当な注目を集めたことが当時の雑誌などでわかります。いわば、衆人環視の状態で上演された作品です。その初演が、実は従来の説より一年早い1953年だったとなると、これは驚きの新説だと思うのですが、でも、この1953年放送初演説の典拠は何なのでしょう?

朝日放送の50年史では、「修禅寺物語」の放送は「1954年11月18日」となっており、文化庁の記録でも、同作の放送は昭和29年の11月18日で、「昭和29年度」の芸術祭賞と記録されています。文化庁の公式記録に、年度の書き間違いというような初歩的ミスがあるとは思われないのですが……。

(文化庁芸術祭の過去の記録としては、たとえば、文化庁ウェブサイトに過去の受賞者一覧のPDFが公開されています。

http://www.bunka.go.jp/geijutsu_bunka/01geijutsusai/jushou_ichiran.html

過去の参加公演については『芸術祭三十年史』が刊行されており、「修禅寺物語」は昭和29年音楽部門に朝日放送の名義でエントリーされたことがわかります。後年に編集された資料は信用できず、より直接的な資料で確認したい場合は、文化庁へ問い合わせれば、昭和29年芸術祭の総覧が同庁に補完されているはずです。)

それに、朝日放送の本放送開始は1951年11月11日なので、1953年11月だと、まだ満2年です。そして1953年秋の朝日放送は大澤壽人がいて、死の直前に制作した番組「邯鄲の夢」でこの年の芸術祭に参加しています。http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20100113/p1

「修禅寺物語」は、やはり1954年11月6日の関西歌劇団公演が初演で、放送はそのあと。つまり、1953年ではなく1954年の11月18日と考えるほうが合理的だと思います。

[追記]

関連して、もう少し。細かい言い回しに関することになりますが補足します。

参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20101028/p1

昨年の長木誠司さんの『戦後の音楽』もそうですが、昨今のオペラ公演が公的助成を得たり、何らかの冠を付けて「箔を付ける」のが当たり前になっている風潮のなかに浸かりきっている方々は、「修禅寺物語」の初演が「芸術祭参加公演」であり、見事「芸術祭優秀賞」を受賞した、ということを過剰に重く見る傾向があるようです。

そしてバブル期のオペラ・ブーム以後、企業メセナが自明であるせいなのか、関根先生は、「朝日放送3周年記念」として公演されたことを、「ABCが、開局3周年記念で委嘱した」と解釈していらっしゃるようです。

でも、清水脩自身が残した文章では、「修禅寺物語」は「構想5年」とされています。そして武智鉄二は、安宅英一の仲介で、昭和27年晩秋に、清水脩に新歌舞伎の台詞回しをアドヴァイスしたと後に証言しています。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20090608/p1

少し後にNHKは開局30周年事業となるイタリア・オペラ招聘を2年がかりで準備しましたが、そちらは既に30年の歴史がある役所のように大きな組織です。一方、戦後の民間ラジオ放送は、まだ出来たばかりで先行きがどうなるかわからない状態です。朝日放送が、昭和27年(開局してまだ1年目)の段階で、「開局3周年記念」の委嘱を行うほど早手回しであるとは考えにくい。

もしかすると、作品が完成しかかった段階で清水脩が朝日放送に上演を打診したり、あるいは、逆に、朝日放送が開局後しばらくして、清水に何らかのアプローチをした可能性はあるかもしれませんが、「修禅寺物語」は完成までが難産であったようですし、具体的な上演時期を決めた約束が交わされたのかどうか。よほど明白な証拠がないかぎり、「委嘱」という強い言葉を使わないほうがいいんじゃないでしょうか。

私の考えでは、「修禅寺物語」は、公演の座組が決まってから作曲に着手したのではなく、清水脩が、(上演の可能性や具体的な座組はあとで考えることにして)書き始めたのではないかと思います。

また、武智鉄二は、昭和27年に清水脩と会った段階ではただ台詞のアドヴァイスをしただけであり、彼が初演を演出すると決まったのはこれよりずっと後であるようです。このあたりからも、「修禅寺物語」は、完成の目処がたってからバタバタと「後付け」で公演の準備が進んだ事例だったのではないかと私は想像しています。当時は、現在のように何年も前から会場や出演者のスケジュールを押さえなければ公演が成り立たない時代ではありませんし。

そして「芸術祭参加」は、朝日放送が公演主体になる(=記念事業と銘打つことでお金を捻出する)ことが決まったさらに後だったんじゃないでしょうか?

この頃は、新興メディアである放送局が芸術祭に熱心に取り組んでおり、NHKなどでは、「芸術祭参加」を前提することで特別に予算を獲得して番組・音楽を制作するケースが色々あったようですが、「修禅寺物語」は、そうした事例とも事情が違うように思うのです。

「修禅寺物語」の成り立ちは、たしかに特殊です。でも、だからこそ、自分がなじんでいる手近な事例から勝手に憶測してはいけない。残された資料に依拠するかぎりでは、

  • (1) 清水脩が「修禅寺物語」の作曲を構想、以来5年で完成。
  • (2) 新作オペラ完成が見えてきた頃から、公演の可能性を探り、朝日放送の記念事業に採用される。
  • (3) 朝日放送は、開局3周年記念を銘打つとともに、芸術祭参加として放送することを決定。

成立経緯はこういう順序だったと考えるほうが、自然ではないかと私は考えています。

[追記おわり]

(2) 「関オペ」、「歌舞伎調オペラ」、「武智オペラ」

そしてこの時期に、通称「関オペ」は黄金時代を迎える。1954(昭和29)年、劇団長の朝比奈隆がヨーロッパ視察旅行から帰国し、日本独自の「歌舞伎調オペラ」を提唱、歌舞伎の演出家・武智鉄二(1912-1988)に依頼して歌舞伎の伝統を導入した一連の「武智オペラ」を上演して一世を風靡した。(44頁)

一読して、「通称」や当時のマスコミが俗称として使った形容が多用されているところが、資料に即して記述する増井さんの文体とは違うなあ、と思ってしまったのですが……。

おそらく、朝比奈隆や武智鉄二本人は「歌舞伎調オペラ」という言い方をしていないように思います。

たとえば、創作歌劇第1回公演のプログラムで朝比奈隆が使っているのは「日本民族の新しい演劇」という言い方です。

日本民族の新しい演劇 朝比奈隆

現代の日本の大衆のために何か新しい演劇の様式が生まれなければならないということは長い間私たちの夢であつた。
それは所謂「新劇」ではなくて日本民族の生活と歴史、また数百年の間に発展して来た日本の古い演劇――歌舞伎は勿論、能、狂言その他の舞台芸術を含めて――の伝統の上にしつかりした根を下ろしたもの、そんなものを考え続けて来たのである。

[……]

止る処を知らぬ武智鉄二氏の意欲と才能がこの仕事の最も有力な推進力であることは勿論であるが、その又背景に厳として立つ日本演劇、数世紀の伝統と蓄積が力強く私たちの作品と大衆とを結びつけてくれることを確信する。

文面の言葉遣いから、「歌舞伎+オペラ」あるいは「能・狂言+オペラ」というキワモノ的な折衷と見られることを避ける配慮が感じられます。

武智鉄二も、「民族的な歴史の流れの上に立つ歌劇」、「民族歌劇創造」という言葉を使っています。

創作歌劇の創造 武智鉄二

[……]私が歌劇運動の必要を痛切に感じたのは、オペラを真に止揚された楽劇にまで前進させるためには、まず第一に日本語に密着し、日本の音楽や演劇の民族的な歴史の流れの上に立つ歌劇を、われわれが、数多く持たねばならないということに、実際の演出上の経験を通じて、気付いてからのことであつた。

幸いにも私は、間もなく清水脩氏の「歌劇・修禅寺物語」の演出を担当した。この作品は日本語の伝統に則して作られた最初の歌劇であつた。[……]

次に私は多くの作曲家にあつて、民族歌劇創造のための協力を依頼した。[……]

朝比奈と武智の言い方を総合すると、「歴史を踏まえた新しさ/創造」ということになりそうです。

当人たちがどう言おうと、それは「歌舞伎調オペラ」(新種の和洋折衷)だ、と見るのもひとつの判断ではありますが、「朝比奈隆が「歌舞伎調オペラ」を提唱した」というのは、ちょっと違う気がします。

ちなみに、関西歌劇団のことを、最近の人たちは「関オペ」よりもっと短く、「関ペ」(しかも「か・ん・ぺ」の「ん」のところが高くなる中ぶくれのイントネーション)と呼ぶみたいです。

(3) 「赤い陣羽織」初演の舞台写真

私が知る限り、関西歌劇団が「白狐の湯」と「赤い陣羽織」を初演した創作歌劇第1回公演の舞台写真は、関西歌劇団の刊行物にも、当時の雑誌記事等にも、「白狐の湯」しか出ていないと思います。

45頁には、金屏風の前に三脚を立てた第1場の写真が掲載されています。キャプションは、

関西歌劇団《赤い陣羽織》初演 / 木村四郎(手前:お代官)、木村彦治(梯子の上:おやじ)、桂斗伎子(右端:おかか) / [1955年6月]以来、通称「赤陣」(あかじん)は同歌劇団の十八番演目になった。

となっています。この写真は、初演時の三越劇場なのでしょうか?

大阪フィルから大阪音大に初演時のものとされる写真を2枚提供していただいており、それは、第1場ではなく第3場なのですが、舞台はかなり小ぶりで、真っ赤な「門」も、のちに定番として使われるようになったものより、一回り小さいのですが……。

掲載されている写真は、再演を重ねて、舞台装置一式が確定したのちの、より大きなホールでの公演であるように思われます。

(4) 関西歌劇団創作歌劇は「地方オペラ」の先駆けか?

[大阪は]もともと洋物だけでなく、身近な内容の日本物に対しても反応のある土地柄だったようだ。これは大阪固有の傾向というよりは、主に1970年代以降、全国各地に地域型オペラが定着していく過程で日本のオペラ作品がいかに大きな役割を果たしたかを考えて見ると、大阪はその先駆けだったのだといえるように思う。(45頁)

繰り返しになりますが、朝比奈/武智は、「歴史(伝統)と創造」という時間的な発展を強調しており、「洋物vs日本物」というフラットな、いわば共時的なローカリティで考える人たちではなかったようです。(日本物を「身近」と形容するのもやや違和感があります。朝比奈/武智には「歴史」「伝統」への敬意という姿勢が強いと思うので……。)これはおそらく、大きく言えば、戦前の帝大で哲学を学んだ人と、戦後の社会科学を通俗化した「西洋vs日本」の比較文化論で育った世代とのギャップかもしれない、と思います。

同様に、昭和30年代頃の関西歌劇団の「心意気」としては、東京という「中央・中心」との対比で、関西・大阪を「地方」と発想してはいなかったのではないかと思われます。

最近ある方から指摘されたのですが、「関西」交響楽団や「関西」歌劇団が出来た頃には、九州にも中国地方にも四国にもプロの常設楽団は存在せず、「関西」の団体は西日本一円で唯一のプロ集団という意識で、実際に活発な巡回公演を行っていたようです。「関西」という言葉が、当時はまだ「逢坂の関の西側」という含みを持ち得たのかもしれない、ということです。

とはいえ、ここでも再び、当人たちがどう言おうと、今となっては「地方オペラの元祖」に見える、というのもひとつの判断ではあると思います。

(そんな風に何でもかんでも、結果論で「今となっては○○にしか見えない」で総括してしまっては、いったい何のために「歴史」を語るのか。歴史を語ることは「現在の私」を勝者として肯定する装置に過ぎないのか、とありがちな愚痴のひとつも言いたくなってしまいそうですが、それはともかく、

関根先生が「地方オペラ」の展開を重視して、共感をもって見ていらっしゃることはお書きになるものから常に強く感じられることですし、

1950年代の関西歌劇団の創作歌劇と、1970年代のいわゆる「地方オペラ」の関連を語るとしたら、創作歌劇第1回公演のときにアルバイトでプロンプターボックスに入っていらっしゃった桂直久さんが、演出家として、大分県民オペラに設立から関わっていらっしゃる、というような人的なつながりがポイントになるのだろうと思います。おそらく、関根先生は、そうした事情をわたくしなどよりはるかに詳しくご存じの上で、だからこそ、関西歌劇団に関する記述の最後で、「地方オペラ」に言及されたのだと思いますが。)

      • -

以上、この本の信頼性に文句をつける意図ではなく、今後、頻繁に参照される文献になると思われるからこそ、事実関係の訂正や補足は、しておいたほうがいいだろうと考えて、気がついたことをまとめた次第でございます。

(しかし、それより何より、演出家の三谷礼二が1984年の佐藤しのぶの「椿姫」のところで一言触れられているだけ、というのが残念でした。これは、日本のオペラにおける演出家の存在意義をそこまで強く意識しない歴史観で綴られている本、ということになるのでしょうか。

増井さんの書いた『〜1952』は、ゼロから試行錯誤した日本オペラ史の第一期を徹底的な文献調査で発掘したパイオニア的な書物。関根先生の『1953〜』は、オペラを「お勉強」した音大卒業生による浄く正しい戦後の第二期(関根先生はThe Rape of Lucretiaを単に「ルクレーシア」と呼び「陵辱」の語を記載しない)を、それに見合った穏健にアカデミックな(でもちょっと排他的かもしれない)口調で回想する書物。新国立劇場をはじめとするオペラ専用劇場ができて、内外ともに演出家の皆さまの元気が良い「演劇としての日本オペラ」の第三期は、まだ「歴史」ではなく、現在進行形なのかもしれませんね。)

*この稿、次のエントリーへつづきます。→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20111210