分析美学:マーゴリスとアメリカの民主主義

年をまたぎましたが、分析哲学の発想と方法を美学・藝術学へ適用したいわゆる「分析美学」について、思うことを少し具体的に書いてみます。

講座 美学 (3)

講座 美学 (3)

現代哲学の根本問題 第4巻 芸術哲学の根本問題 (現代哲学の根本問題 4)

現代哲学の根本問題 第4巻 芸術哲学の根本問題 (現代哲学の根本問題 4)

『講座美学3 美学の方法』(岩波書店)で戸澤義夫先生が「分析美学」を執筆していて、

それ[1950年]以前の展開は既に講座=美学新思潮3『記号論』の中で川野洋氏が「分析美学」と題して詳細な紹介をおこなっている。(戸澤義夫「分析美学」、今道友信編集『講座美学3 美学の方法』、岩波書店、1984年、120頁)

としたうえで、1950年代以後を扱っているので、竹内敏雄監修『講座=美学新思潮3 芸術記号論』(美術出版社、1965年)と、この戸澤論文の2つが、日本における分析哲学の美学への適用を概観するときの起点とみなしてよさそうです。

この『美学の方法』の序論で、今道先生は「分析美学」の「定義の重要性を再び尊重する」姿勢に着目しています。

本来、分析哲学と言えば、右の科学論理主義に影響された哲学者たちが自己の思索の道具としての言語を自覚的に純化した上で使おう、という考えに出発して、いつの間にか言語純化が目的となって、日常言語派に至っては、考えそのものは一時は、退化してしまったような所もあるほどに、言語分析を課題とする哲学である。しかし、この態度は、本来、孔子やソクラテスたち偉大な哲学の創始者が喚起した定義の重要性を再び尊重することであり、論理的な責任を引き受けるという哲学の初心であると言わねばならない。(今道友信「序論 美学方法叙説」、同上、15頁)

ここにも「純化」とか、「偉大な哲学の創始者」という語彙が出てきます。分析哲学にはピューリタンの発想が見え隠れすると私には思われ、だから先にああいう寓話を作ってみたわけですが、

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20111228/p1

『講座美学』が出てから既に四半世紀たって、美学・藝術学界隈を遠目に眺めておりますと、美や藝術をめぐる手頃なサイズの言説や概念をターゲットとしてチョイスして、その言語分析をレポートとして提出する一種のオートメーション化の可能性に着目する方々がいらっしゃるようで、分析哲学の手法は、有力な業績量産エンジンのひとつになっているようです。

もちろん、なかには敬虔で純粋に課題を探求する方もいらっしゃるのだと思いますが、この手の量産エンジンを搭載した論者のなかには、分析哲学的な手法を一種の「煙幕」として用いる悪質な方もいらっしゃるようにお見受けします。分析哲学で「消毒」されていない語法で近づいてくる者を門前払いしたり、そのような者を足止めして時を稼いで、その間に逃走する、といった「飛び道具」として、この種の言語分析を活用する人々です。(あとは、頭脳を空ぶかしするかのような、実例と紐付かないことば遊び。)

学問芸者として生きていくためには、そして、自分自身を「高く売る」ためには、ときにはそのような振る舞いも仕方がないか、とは思いますし、学位取得者が増加する一方で大学のポストは少子化で減少の一途ですから、競争を生き抜くためには、使える手段は何でも使う、なりふりかまっていられないところではあったのでしょう。

でも、そうした振る舞いは端的に「見苦しい」ことでございますし、問題追及の方法論が、短絡的な「効果・有用性」の観点から推し量られて、そのどこがいけないのか、と居直られては、呆れるしかないところではございます。

学者も俗人である、というのは当然のことでしかなく、学者のモラルとは俗人としてのモラルであり、誰も彼らに「聖人君子」を求めているわけではない。学者のモラルで問題になるのは、聖人と俗人の区別ではなく、良質の俗人と悪質の俗人の区別であるはずです。言語分析に携わる方々は、当然、言語運用の「裏技」にも習熟することになるようで、このような問題の安直なすり替えで事態を切り抜けようとするのは、クラッキングに等しい行為であろうと、私には思われます。「ワルぶってんじゃねえよ」という下品な罵声を押し殺しつつ、学問業界の方々には、是非とも真摯に考えていただきたいと思うところではあります。

が、ここでは別のことを書きます。

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岩波の『講座美学』は東大系美学者が分担執筆したシリーズ本ですが、これより5年前に、こちらは京大系もしくは当時の関西在住の美学者が分担して欧米の論文を訳出した『藝術哲学の根本問題』(新田博衛編、晃洋書房、1979年)というアンソロジーがあり、ここには、「分析美学」として、A. R. モール「サイバネティクスと藝術作品」(戸澤義夫、伊藤邦武訳)、J. マーゴリス「藝術作品の同一性」(森匡史訳)が収録されています。

マーゴリスの論文は上記『講座美学』の戸澤論文でも、しかるべき文脈のなかに収めて、藝術をめぐる言語分析の重要な成果のひとつとして言及されています。藝術における「作品」というキーワードが扱われているので、様々な形で引用・参照・言及されることが多い論文ということになるようです。

そのような方法と内容に関する正攻法の論究は専門家にお任せすることにして、私には、2つのことが興味深く思われました。

ひとつは、原論文の発表が1959年だということです(Joseph Margolis, The Identity of a Work of Art, in: "Mind" Vol.LXVIII, No.269, January, 1959, pp.34-50)。コンピュータが実用化されるようになって、今日のプログラミング言語の源流になるLISP、Fortran、ALGOLなどが考案された時期ですね。

typeとtokenというコンパクトな対概念で藝術をめぐる「作品」という語の運用を鮮やかに整理するわけですが、typeとtokenは、コンピュータ・プログラミングで言う「型(type)宣言」(これによって、記憶装置のどのような領域のどれくらいの分量を当該処理に割り当てるかが決まる)と「値の代入」(これによって、記憶装置の当該の領域に指定された値が書き込まれる)の区別と同形だと思います。

int x; /* 変数xを整数型(int=integer)で宣言 */
int y; /* 変数yを整数型で宣言 */
int z; /* 変数zを整数型で宣言 */
x = 1; /* 変数xに1を代入 */
y = 2; /* 変数yに2を代入 */
z = x + y;
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ジョセフ・マーゴリス(1924- )がどのような人なのか、ちょっと調べただけではよくわからないのですが(Wikipediaの、父がユダヤ人移民で歯科医であるとか、コロンビア大学で哲学を学ぶ以前に、第二次大戦でパラシュート部隊に所属し、バルジの戦いで負傷した、という経歴は直接そこから人となりを知るヒントにならなさそうで……)、

Joseph Margolis was the son of central European, Jewish immigrants. His father, a dentist, was a well-read man, greatly interested in literature, and proficient in four languages.

Before dedicating himself to philosophy, Margolis served in World War II as a paratrooper. He was wounded during the Battle of the Bulge, and lost his only brother, a twin, in the same engagement. He studied at Columbia University, earning both the M.A. (1950) and Ph.D (1953) in philosophy. Famous contemporaries at Columbia included the art theorist Arthur C. Danto and the philosopher Marx Wartofsky.

Joseph Margolis - Wikipedia, the free encyclopedia

この頃のニューヨークは、映画で観ると、ちょうど、従来の石造りの街並みのなかに、四角いガラス窓が鏡のように外の光を反射するモダンなオフィス・ビルが出現しはじめていた時代だったようです。

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ニューヨークを舞台とする映画は1950年代半ば頃から、アパートは昔ながらの石造りで、職場はモダンなオフィス・ビルというのがひとつのパターンになるようです。ニューヨークが世界の最先端だとして、どういう先端だったかというと、ウォール街は「工業社会から情報社会への転換」(アルビン・トフラーの言う「第三の波」)のフロンティアだったんですよね。

マーゴリスが1959年25歳のときに発表した論文は、旧来のブルジョワの書斎を連想させる美学言語(文学好きであったというマーゴリスの父の世代が好んだであろうような)を、ホワイトカラーのビジネス・エリートの感性にフィットするものへ変換する、当時の価値観においての先端的な仕事と位置づけることができそうな気がします。

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さて、そして分析哲学の手法による言語分析を読んでいると、北米流のディベートが思い浮かぶのではないでしょうか。

あらゆる発話を権利上等価なものとして一覧したうえで、言説の構造を吟味するのが建て前なところは、まるで、陪審員裁判みたいです。スラム街で育ったブルーワーカーの拗ねた態度も、日本で言えば「江戸っ子」という風情のセールスマンのおちゃらけた軽口も、英語がおぼつかないアイルランド移民のカタコト発言も、一代で成り上がったたたき上げの工場経営者の恫喝も、謹厳実直な体育教師が議長を務めるディベートの場では等価であって、場合によっては、ヨボヨボのおじいちゃんの一言がgilty or not giltyを分ける決定打になるような「十二人の怒れる男」のアメリカン・デモクラシー。

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1954年のテレビドラマをもとに、1957年に映画化。マーゴリスが在籍したコロンビア大学のあるニューヨークを舞台として、マーゴリス論文の2年前に封切られた映画です。

で、戸澤論文とマーゴリス論文を読み比べながら思ったのは、このようにデモクラティックなディベートでは、ドグマを突き崩したり、議論のコマを一段階先へ進めるような、ターニングポイントに置かれた発話・発言素材のクオリティが、論述の説得力を大きく左右するということです。

陪審員映画では、しばしば「どっちでもいいから速く終わらせよう」という人物が出てきて、彼は場の空気を読んで、多数派につこうとする傾向があり、周りから煙たがられていて、ところが、そのようないいかげんな人物があるタイミングでまじめに取り組むように豹変するのが「見せ場」のひとつになったりするわけですが、

でも、現実がそれほどドラマチックなわけではなく、言語分析の論述においては、話の展開を都合良く進めるための口実としか思えない発話・発言素材が挿入されてしまうことがあるようです。(官僚の作文・レポートに、しばしば巧妙な数字の辻褄合わせがある、と言われるのと似た現象ですね。)

マーゴリス論文が今読んでも面白いのは、当時の先端的な議論であったというだけでなく、そこで引用される発話・発言の具体例が含蓄に富んでいるからだと思います。論文の論述・構成自体は都会的でモダンなのだけれども、そこへ挿入される発話・発言素材が、論旨の展開効率に回収できないところで、いわば「文学的」なんですよね。そして、--このように書いたからといって、論文というものが「文学的」に「格調高い」感性に裏打ちされていなければならないと思っているわけではまったくなくて--、個々の発話・発言素材を厳選していることが、歯ごたえのある課題に取り組んでいることを示唆して、論考の説得力・信頼性を高める付随情報になっているように思うのです。

こういうのを読むと、分析哲学にもエートスが内在しているし、小手先の技術・方法としてチョコチョコっと利用して一儲け、みたいな態度は、長期的に淘汰されていくのでしょう。

真面目に取り組んでいるかどうか、ということ、まともな人間が書いているかどうか、ということは、やっぱり書いた物にあらわれてしまう。当たり前な話ではありますが、分析哲学といえども、いいかげんな人間がチョチョイのチョイで百万力を発揮する万能のツールというわけではなさそうです。

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以上、ちょっとだけ分析哲学を見直していいような気がしている2012年の最初のエントリーでございました。

今年もどうぞよろしくお願いします。