「僕たち、私たち」のいる吹奏楽

とある最近の吹奏楽曲のことを調べていて、不意に気づいたこと。

吹奏楽は、どうして折衷的なスタイルなのか、中途半端な気がして、私は昔から(吹奏楽をやっていた中学生や高校生の頃から)ずっと疑問だったのですが、とある描写風の音楽のなかで、「自分たち」のことを感情移入して考えて欲しいらしい場面がバークリー風のポップス調になっているのを見て、そういうことか、と思いました。

吹奏楽はアマチュアの少年少女が演奏する曲だから、少年少女が「自分たちの音楽」だと共感して、同一化できるスタイルが主人公になるんですね。

[吹奏楽は「少年少女」がやるものだ、という見立てに違和感をお感じになる方がいらっしゃるようですが、その件は後述。]

このところお気に入り(のひとつ)である「役割語」の本のなかで、日本の小説やコミックの読者が移入することが期待される主人公は標準語だ、という原則が指摘されていますが、音楽にも似たところがあるはず。

クラシック音楽の場合はヨーロッパの貴族やブルジョワのために書かれているので、エキゾチックな題材を扱うオペラであっても、主人公は正統派のイタリア様式の大アリアを歌い上げたりします。モーツァルトの「後宮」もヴェルディの「アイーダ」もプッチーニの「トゥーランドット」もみんなそうです。

で、吹奏楽はそういうクラシック音楽の有名曲をアレンジして演奏したりもするわけですが、そうすると、現在吹奏楽をやっている人たちは別に貴族やブルジョワではないし、ハイソなお客さんのために演奏しているわけでもないので、ローエングリンのエルザの音楽とか、リシルド序曲とかを演奏すると、リアルな自分とは違う何かの「役」を演じているような状態になる。それはちょうど、高校の演劇部で「桜の園」とか、シェークスピアとかを舞台衣装つけて演じるような感じなのかもしれませんね。

(モーツァルトやショパンを弾くプロのピアニストだって、(日本では)結婚式の披露宴かと思うようなドレスを身にまとってステージの上がるのですから、吹奏楽の人たちだけでなく、日本人にとってのクラシック音楽は、本音の部分において、鹿鳴館的にヨーロッパ富裕層のコスプレをしている感覚が根強くあるのかもしれません。)

でもまあ、そういう風に現実とは違う「役」を演じる楽しみがあるにしても、それだけでなく、現実の自分がストレートに移入できる音楽があったら、さらに嬉しいことは間違いない。

アメリカの吹奏楽曲などで、壮大なファンファーレとかが付いて、「シンフォニック」でありつつ、主旋律がどこかポップス調だったりすると、現実の自分が「シンフォニー」の世界と地続きにすっと入っていけるような感覚を味わうことができるのかもしれません。

そういう意味で、吹奏楽の部外者から見れば折衷的に見える作曲スタイルは、主人公が「標準語」をしゃべることになっている小説や映画と比べるのではなくて、手塚治虫のアニメ西遊記とか、学研のまんが日本の歴史とか(小学生の頃よく読んだ、私にとっての後白河法王の最初のイメージはこれかもしれない)、桃尻語訳の枕草子とか、あるいは、パタリロ源氏物語(ウィキペディアで最近知ったのですがそういうのがあるらしい)とか、というようなものと合わせて考えるのがいいかもしれませんね。

コミック雑誌は買っちゃダメだけれど、学研の教育マンガだったら読んでもいい、などという親は、微温的で欺瞞的かもしれませんが、現実にそういう家庭というのもある(あった)わけで(現にうちの両親がそうだった)、そのような線引きの延長上に、軽音楽部でバンドをやるのはNGだけれども、吹奏楽部でニュー・サウンズ・イン・ブラスのポップス・ステージをやるのはOK、というようなことがあったのかもしれません。

本物のブルジョワは真っ直ぐ一直線に本物のクラシック音楽へアイデンティファイするのかもしれませんし、本物のロックンローラーはさっさとバンド活動をはじめてしまうのでしょうから、そういう意味では、吹奏楽は、19世紀の「乙女の祈り」やグノーの「アヴェ・マリア」のようなキッチュなサロン音楽に対応する20世紀の「中間音楽」なんでしょうね。

そしてこの微温的な感じは、現状の吹奏楽の、軍楽隊という起源では説明し尽くせない部分であるような気がします。まだその全貌は私にはよくわかりませんが。

[2/24 追記]

「吹奏楽はアマチュアの少年少女が演奏する曲」という表現に違和感がある、というご意見を頂戴したので、少し補足します。

アメリカのカッコイイお兄さんお姉さんに憧れて、日本の「少年少女」が吹奏楽をやる、という構図が戦後のある時期まであったのではないか、と私には思えます。戦後、アメリカのスクールバンドのシステムやレパートリーが一挙に日本に入ってきたのは、そういう風に考えるとうまく説明できそうな気がするからです。

今現在、青年や社会人になっても吹奏楽を愛し、続けている人がいるらしいことは承知していますが、それはそれとして、別に分けて考えたほうがいいのではないか。つまり、今現在、既に青年や社会人になっているオレやワタシがこうして吹奏楽をやってるぞ、仲間はたくさんいるぞ、ということが意実としてあるとしても、

「かつて吹奏楽を主として少年少女がやっていた時代があって、その頃の吹奏楽作品が、そのことを前提に書かれていた可能性が高い」

と推測することを妨げるものではないだろうと思っております。

で、それはそれとして、今現在、青年や社会人として吹奏楽を愛し、続けるのはどういう情熱や習慣や文化なのか、ということについては、むしろ私のほうがその機微を教えていただきたいです。

たとえばマンガの場合は、市場が大きく成熟していますから、少年漫画・少女漫画・劇画……というように、歴史的な経緯のなかでジャンルが枝分かれしていきましたが、吹奏楽にもそういうところがあるのでしょうか?

で、マンガであれば、記号的なお約束として存在する二投身の主人公とは別に、劇画のほうから来た八頭身のキャラクターが活躍する作品・ジャンルがありますけれど、

吹奏楽にも、「八頭身の主人公」(おおもとの由来は西洋遠近法絵画のデッサンだと思う)に相当する様式特徴を備えたジャンルが、少年少女用から発展したと思われる二頭身とは別に成立し、成功している、と見ることができるのでしょうか。

藝術音楽の作曲家がオーケストラ音楽を書くのとあまり変わらないスタイルで吹奏楽曲に参入する例は、単発や継続でかなりあるし、吹奏楽団体のほうから、そういうものを委嘱する例もかなりの数あると認識していますが、そういう作例が、今現在、どんな形で昔ながらの吹奏楽曲となじんでいるのか、というのが知りたいです。

私が知る限りでは、ちょうど、マンガの表現で、二頭身と八頭身が同じ画面に共存可能であるようにして、「少年少女」テイストと、「アート」テイストが混ざっているように見えます。そしてそうなんだったら、混ざり具合を具体的に見極める意味でも、吹奏楽のなかに存続しているかもしれない「少年少女」テイストを、否定するのではなく、肯定したうえで、どういうところにそれが現れているのか、見極めた方がいいように思っています。

少年・少女の心を失わない大人たち、ってステキじゃないですか!