脱欧入亜でブロンを食べよう!(與那覇潤『中国化する日本』)

輪島裕介氏が熱烈に誉めている本。

[2/21 琉球/沖縄をめぐる引用・コメント、そしてたぶん届かないであろう輪島裕介先生へのメッセージを追記。]

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

(1) 本書の言う「中国化」とは社会の流動化のことで、「江戸時代化」とは社会の固定化のことであるらしい。そしてこの「流動化/固定化」(追記:稲葉振一郎さんの「(帝国化・市場化としての)中国化」と「(封建化・閉鎖社会化としての)江戸時代化」という要約が正確でしょうか http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20111129/p1)の二分法で色を塗り直してみると、「日本という国」の見え方が、高校教科書的な日本史の記述とは随分変わってくる、というのが売りであるらしい。

(2) そしてこのような歴史観の「塗り直し」は、最近の歴史学の諸説を踏まえた形になっていて、トンデモ本というわけではないらしい。(知らない話もあったけれど、知っている話もチラホラあって、突拍子もないところから無理矢理、珍説奇説をでっちあげているわけではないみたい。)

(3) 「流動化」と「固定化」のせめぎ合いとして日本史を語り直すことだけが目的なのであれば、ストレートに「流動化/固定化」という言葉を使えばよさそうなものだが、これを「中国化/江戸時代化」とキャラ付けするのは、第1には、宋朝中国が東アジアにおける「流動化」の源流・モデル・発端であり、「江戸時代」がそれに最も頑強に抵抗した時代である、ということを印象づけるためであるらしい。

(4) 次第に言葉が一人歩きして、宋朝中国の影響や徳川時代の影響なのかはっきりしない場面でも勢いでこの言葉が乱発されるようになっていくので、途中でついていけなくなるところがある。

(5) 「グローバル/ローカル」という流行の言い方をしないのは、ヨーロッパは世界史的にみて辺境であり、中国のほうが先進地域であった、というこれ自体はある時期までそうであったと思われる事態を印象づけるためであるらしい。脱欧入亜。

(6) でも、中国固有の特性と、史上他の地域にもいくつか出現した世界帝国の一般的特徴とが切り分けられていないような気もする。そしてヨーロッパより中国のほうが先進地域であったかどうかの吟味は、世界全体のグローバルな議論が求められる話なので、「流動化/固定化」の視点から日本史を塗り直す作業とは切り離して、別にやってくれたほうが有り難い。この話に興味はあるけれど、「中国化」という言葉を使うことで全部一挙に解決してしまおうとするのは、一種の抱き合わせ商品で、一方が欲しいならこっちも同時に買え、と言われているようで対応に困る。

著者は少々性急で欲張りなのではないか。

そしてこの少々性急で欲張りな感じは、新左翼の演歌イデオロギーを処置するついでに、「みなさまのNHK」を一緒にぶった切ってしまおうとする輪島裕介氏の性急で欲張りな感じとちょっと似ている。

これって、一種の「ブロン」(メロンのように大きな実がブドウのようにたくさん成る木を目指して品種改良してみたら、ブドウのように小さな実がメロンのように少ししかできない木ができてしまったというショート・ショート=良いところ取りを狙って悪いところ取りをしてしまうのを喩える星新一起源の著者造語)ではないのだろうか?

メロンはメロンとして、ブドウはブドウとして、別々に食べても十分おいしいはずなのに、この本を読んでいると、いつの間にか、書かれている言葉とは裏腹に「ブロン」が最も魅力的な果実であるように思えてくるのです。

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[以下、2/21追記]

「これが現在の歴史学の常識です」と通販番組みたいにやたらと力強く断言して、テレビの過剰なテロップみたいにゴチック体連発で目がチカチカする文字面で、チープな外見を身にまとうことにより、身なりの整った歴史書が入り込めないところまで本を届けようとするのはわかるのですが(←こうしたケバケバしいブックデザインは文芸春秋社のノリに著者が乗せられた結果か? 大河ドラマ「清盛」に便乗しようという感じもちょっとあるし)、

読者をぐいぐい引っ張っていくドライヴ感を確保するときに「ブロン」が混入してしまいそうになることへの自己分析はできているのだろうか。これって、「江戸時代的」なのかもしれない日本で「中国化」を性急に説こうとした人たちが、みんな遭遇するワナのような気がするのだけれど。日宋貿易の清盛、バサラの後醍醐、石山本願寺、ホリエモン……。みんな「今度はいける」「今回だけ、これが最後、ここを乗り切ったらあとは大丈夫だから」と言って危ない橋を渡るのが命取りになっちゃうわけで……。

(7) そしてここまで考えてくると、「中国化」対「江戸時代化」という看板を表に出しつつ熱烈に語る與那覇さんの欲動が指し示す先は「琉球化」なのではないか、という気がしないでもない。単なるヤマカンだけれど、論の構造は、琉球/沖縄が「ブロン」というあり得ない木の実が良くも悪くも現実に育ってしまう場所である、ということになっているように思う。本書は「中国」vs「日本」の本であり、この図式だけでも画期的に斬新であると好評らしいけれども(「西洋か中国か」、「中国が江戸時代か」というわけで、ここにも、世間は二分法を好む、の法則の一例がある)、「ブロン」の向こうに琉球/沖縄の存在をほんのりと感得して、「中国/日本/琉球」の三角形の可能性を透かし見るほうが面白そうだ、そうでもしないと、この本は32歳の男の子が頭の良さを頼りに作った新種のパズル、平板な二択問題になってしまうと私は思う。「若き才能」が次から次へと出てくる音楽業界をしばらく眺めていると、早熟な才能というのが退屈の同義語に感じられ、また出たか、まだそういう商売をやってるのか、三本目の足が生えそろうまで待てない学者の青田買いだなあ、と思ってしまうのです。(参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120218/p1

*逆に、その下で[=日本が、朝鮮半島やインドシナで血みどろの「熱戦」が展開されたアジア世界で唯一、「安保条約」を結んでアメリカと組むが、憲法九条を維持してアメリカの戦争にはおつきあいしない」という、一番おいしい居場所を占めることができたことの見返りとして]「割を食わされた」地域が、日米間での帰属の曖昧さにつけ込まれて山のような米軍基地と「核密約」を背負い込むことになった沖縄でした。これは、「日中間」での帰属の曖昧さが、一定の自主性や経済的利益を琉球王国にもたらしていた「本当の江戸時代」と比べたとき、戦後日本の「新しい江戸時代」が帯びていた明白な原罪だと思います。左右の立場を問わず、新旧の江戸時代の「平和」を語るときに、忘れないでほしい視点です。(223頁)

最近の学者さんは頭のいい人ほど「ビジネス・ライク」であることが多いので、一山当ててそれで満足。話が面倒になるまえに退却して、あとは大学教員として気楽に暮らす、と、與那覇さん(くん?)もそういうパターンかもしれない懸念は常につきまといますが……。「中国化」したライフ・スタイルだと、成功者の周囲にはワラワラと庇護を求めて人が集まることになるそうなので、これからきっと、與那覇さんは、世襲不可能な成功者として、そういう降ってわいたような「学問上の扶養家族」を当面食べさせていかねばならない立場になるのでしょうし。

(ところで、唐突ですが、前略、輪島裕介様。

「あいまいな日本の公共放送」であるNHKがターゲットとして気になるということは、演歌・レコード歌謡・日本の芸能界の周囲にある戦後日本社会の差別の構造を、いつかどこかで何らかの形で扱うということですよね? 渡辺裕師匠は阪神淡路大震災のときにそこへ触れそうな動きをして、でも、当人が「天然」で、それと気づかずに通り過ぎて今日に至っているわけですが……。

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あと、レコードは、與那覇史観で言うなら「世界の辺境」であるところのガサツなヨーロッパ人たちの最近の入植先であるところのアメリカの住人が、演説を記録できたら便利だろうと思って考え出した浅薄な技術に過ぎず、中国文明を支えた「紙」と比べた場合、歴史が無に等しいほど浅く、洗練の度合いもはるかに劣っていると思う。

録音・再生機材がごちゃごちゃ色々必要で取り回しが悪く、耐久性も中途半端だし……。

「紙」を通貨にするという卓抜なアイデアを考え出した中国ほどの智恵が、この円盤に詰まっているとは私には思えない。むしろ、グローバル・ヒストリー的には、「江戸時代的」な一過性のオモチャではないか。

レコード歌謡だけでなく、大正期以来、膨大に録音された邦楽や落語や各種芝居や活弁や……というのを集めたら、どうにか過去百年の「新しい江戸時代」としての近代日本の何かが見えてくるかもしれないけれど。)

*この項さらに続きます → http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120226
*シモジモの議論に興味なし、ハイブロウな語り口で小津安二郎を論じるほうをお好みの方はこちらをどうぞ。 → http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120227/p1

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