【まとめと解説】編集権を掌握したサラリーマンたち

インタビュアー(取材する側)が取材記事の編集権をインタビュイー(取材される側)に譲り渡すと、そこに収録された言葉は、まるで、正しいことしか言わない人形のようなツルンとした感触になる。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1502/16/news096.html

(上のリンク先記事をインタビュイーが「事前チェック」したと私が判断した典拠は、これ → https://twitter.com/smasuda/status/566228091400245252

他者が入らない発話(だって自分の発言を自分の思い通りに編集して仕上げたのだから)は、独白と同じであり、かつては、そのような言葉を世間に流通させることができるのは独裁者だけだったわけだが、メディアが編集権をインタビュイーに譲渡すると、すべてのインタビュイーが、原則として同じように、自分の発言をメディア上で意のままにコントロールできる。

その結果は、かなり気色の悪い「対話の不在」だよね。

*この不気味なツルリン感は、潔癖症の免疫不全とひとまず比喩的に説明することができると思います。 → http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150217/p3

私たちは、いわゆる「タイアップ記事」(紙面等を広告主が買い取って、あたかも普通の取材記事であるかのような体裁で広告する)でそのような「広告主が自分に都合のいいことだけを語る言葉」を見ることに次第に慣れつつあるわけだが、

上のリンク先の大学教員の言葉は、広告記事における広告主の言葉に似てツルンとした感触だ。

この大学教員さんの言葉が、日頃彼がツイッターで批判して止まない「ビジネス・マインデッドな人々」の言葉とそっくりになってしまっているのは、理性の狡知ならぬメディアの狡知と呼べばよいのだろうか。

*編集権については以下を参照:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150214/p2

(この件では、情報を貯め込むことの問題よりも、「自分」を制御・編集することによる対話の欠如が表に出ている気がするし、一方的に言いっ放しにするのは、そのほうが安全安心なのだろう、という感が強いけれど。そして、「自己」の制御・編集は、なるほど知識とは違うけれども、知性とも少々ズレていて、せいぜい「文明化」の一種、もしくは「処世術」かなあ、と思うわけだが、そのあたりに彼自身が気付いているかどうか、定かではない。こんなん、ゆうてるし。 → https://twitter.com/smasuda/status/567653562205732864

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そしてまた、こうも言えるかもしれない。

「大学教員はサラリーマンである」「大学教員もサラリーマンである」

というのは、何も昨日今日にはじまったことではなく、私たちが大学に入るより前、全共闘さんがガーっと吠えていた頃から既にそうなりつつあった事態であって、その息子の世代になってようやく、大学教員がサラリーマン(広告主としてメディアを買うような)と同じ言葉で話すようになったということだと思う。大学の専任教員は、事務仕事が業務の過半、であるらしいし……。

つまり結局、「すべての言葉はパクリ/コピペである」というのは、サラリーマンのサラリーマンによるサラリーマンのための言説はやっぱり退屈だなあ、というウィキペディアの現状(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150209/p2)やイベント・マネージャーの生態(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150215/p1 および http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150215/p2)とよく似た事態を確認しつつ、話がふりだしに戻ったということに過ぎないわけで、それは特に驚くには当たらない。

業務書類は、読みやすくコピペ・編集してあるほうが都合がよくって、「私の主張」がナマで大量に書き込まれていたら業務が滞るわけだから、「すべてが他人の言葉」なのは、日常のありふれた情景に過ぎない。

そこには、ここ(→http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150217/p5)で指摘したように、佐村河内のような、サラリーマンならざる何者かになろうとして墜落した男の言葉、といったものが登場する余地はないわけだが、これもまた、昭和後期から変わらぬ風景に過ぎない。(「虚構の時代」で「私小説の不人気」、盤石の村上春樹へ至る流れですな。)

そしてまことに残念なことに、サラリーマンのサラリーマンによるサラリーマンのための言説の現状を考えると、

「常識とは何か」→ http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150217/p2

という話は難しすぎるようである。ここは、「だから日本は……」という民度問題に発展しかねぬ。

「だから人文にもまだできることがある」と喜ぶべき事態なのか、「これだけやっても、ここまでなのか」と悲しむべきなのか、判断は難しいわけだが、

しかしまあ、

「大衆とはひと味違う亜インテリ」

の水準は、こんなものだろう。

(そして「サラリーマンである大学教員」さんが、どこから「コピペ」ゲームを着想したか、彼の個人史的来歴としては、こういう読み筋があるわけです。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150217/p1

東大教授の伝説のゼミ → 阪大助教授(当時)によるそのコピー → そして大阪市大へ

ということです。せっかく安住の地を見つけたのだから、大阪市大はそのまま彼の退職まで残してあげられないのかなあ、と、ほんとにそう思うよ。根が怖がりなので、ピンチになると予測不能に暴走するところがあるし……。

「サラリーマン生活」に彩りを添えるトリックスターとして、増田先生はそこそこ有能だと思いますよ。阪大は卒業生の大半がサラリーマン(管理職や理系の院卒研究職であっても「社会のリーダー/支配層」とまでは行かない)なので、ちょうどいい落ち着き先ではないか。サラリーマン川柳@ツイッターの家元、とか。)