補遺:編集と遠近法

とはいえ、ひとつだけ、生活環境保護(笑)のために苦言を呈したい。

前にも書いたが、「編集」なる作業の焦点は、コピー/ペーストではなく、デリート/インサートなのではないか、ということだ。

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私のような人間でも、ごく稀に取材されて、コメントを求められることがある。

そして事前に予定稿がこれでいいか確認を求められたこともある。

でも、基本的には「好きに書いて下さい」と言うことにしている。

だって、そこに書かれているのは、「私の言葉」ではなく「私という人間について書かれた他人の言葉」なのだから。

そして、「この人にはこういう風に見えた/聞こえたのか」と知るのは、おもしろいじゃん。せっかく、そういうのが出てきたのだから、最大限に活用して、あまり手を加えずに残したい、と、私は考える。

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一方、自分の署名で出る原稿は、事前に字数とかどういう媒体にどういうレイアウトで出るのか、確認したり予測したうえでまとめるのは当然だが、割り付けられたゲラをそれなりに直す。(そしてこの作業が、デリートとインサートですよね。「トルツメ」とか、そういうの。)

掲載面に収まってみると印象が変わることってありますもんね。

自分の署名で出る枠は、できるだけ読んで面白いような状態にしておく責任があるだろうと思うから、それは、やる。

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私見では、こんな感じの線引きが、別に私個人のポリシーとか何とかではなく、文字を紙にレイアウトするメディアの通常の遠近法だと思うんですよ。

でも、増田先生は、「オレに関すること」は、全部自分で制御・編集したい、ということなんですよね。

何かを守ったり、何かを作りあげたりしたい人は、概してそういう欲望を持つものなのかもしれないけれど……、

それをやっちゃうと、

神は人間よりもデカく描く、イエスやマリアや聖人もデカく描く、その他大勢は小さく描く

という中世の宗教画みたいになってしまわないのだろうか。

そうやって出来上がった文字面における「オレ」が、妙にツルツル・ピカピカに磨かれてしまっていることに、自分が恥じ入ったり、ということはないのだろうか。

以前、吉田寛先生がゲーム画面におけるアイコンの記号作用の二重化を論じていらっしゃいましたが、人生はゲームなのだ、ということになると、そこに登場する「オレ」というアイコンは、こんな感じの見栄えでいい、ということになっているのかなあ。

いやあ、ほんとにそういうことなんですかねえ。

デカいアイコンとして君臨した佐村河内と、どこへ出てもほんとに小さな声でしゃべる新垣、どっちが幸せだったのだろう、というのは、あると思うのだけれど……。