日本語の添削(大幅加筆)

×一緒にここまで来た → ○一緒にここに来た

[解説]

高い評価を受けて、ようやく「ここまで来た」と感慨が綴られているわけだが、私の考えでは、その「高い評価」の内実(=「名手揃いの希有な団体である」という誉め言葉、以下これを「評価X」と呼ぶ)が、昨日今日にはじまったものではなく、十数年前の晴れやかなお披露目公演で既に言われていたことだ、という点が重要だと思う。

今回が「評価X」を明言した最初の文書なのであれば、「評価X」を得たことで感慨に浸る、という態度があり得るが、実際には、「評価X」は既に様々な論者が指摘しており、よほどの健忘症でなければ、関係者にとってはいつもと同じ、見慣れた評価軸であると考えられる。それゆえ、もし今回の公演に対する批評文がこれまでにない形で「ここまで来た」という感慨を引き起こしたのだとしたら、その原因は、評価の内実以外の何かに起因すると推測せざるを得ない。そしておそらく最もあり得るのは、「評価X」が誰によってなされたか、ということをこの人は重視している、という仮説であろう。

すなわち、

  • (a) これまでは地元のヒョーロンカ(←世間的ならびに一流企業的には無価値)が「評価X」を繰り返し口にしていたにすぎなかった
  • (b) ところが今回は一流大学の先生が「評価X」を明言してくれたことで、世間的ならびに一流企業的なステイタスがワンランク・アップした

という受け止めが「ここまで来た」という感慨の内実だと思われる。

私は、さしあたりそのことについて特段の感慨はない。

評価を下した先生ご本人も、それを掲載した媒体も予期しなかったであろう読まれ方だと推測されるが、かように積極果敢な「誤読」「勝手読み」があってこそ世の中は面白くなる。そしておそらく「この先」(すなわち「ここまで」に対応する「ここから」)には、

  • (c) 一流音楽雑誌の巻頭グラビアを飾り、名実ともに日本を代表するグループになる(そのようなグループである、と世間的ならびに一流企業的にアピールできる記事をゲットする)等々

さらには、

  • (d) 海外の有名都市あるいは有名音楽祭に招待される(「有名」が大事)

といった高い目標が、どこまでの実現可能性を見積もるかはともかく、大望として想定されているのであろう。本当にそうなれば結構なことかもしれないし、そのような物語は、「世間」がこれまでの先例を踏まえて芸事におけるサクセス・ストーリーとして思い描くパターンを踏襲していてわかりやすく、少女漫画的でもあるし、「出世スゴロク」的だという点では、会社のサラリーマンさんとも親和性が高いと考えられる。

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しかしここで同時に注目すべきは、今回を含めて、誰もが同じ種類の評価(上手だねえ=上記「評価X」)しか口にしない状態が十年一日の如く続いていることではないだろうか。

他の誉め所が容易に見つからないのである。

これを試し、あれを試し、今度は思い切ってあんなことをやってみたり、他とタイアップしてあんなことこんなことをやってきたけれど、なかなか思わしく飛躍するチャンスをつかめず、ようやく今回はちょっと流れが変わったかもしれない、という図は、自他共に認める「実力派」がなかなかヒット曲にめぐまれず、演歌でデビューしたのがムード歌謡に手を染めたり、ラテンのフレーバーを加えたり、デュエットでカラオケ層を狙ったり、競作に参加したり、思いつくあれこれを色々やって、なんとかひとつ当てて一息ついた、というのに似ているかもしれない。そしてそのような試行錯誤を言葉にするとしたら、「ここまで来た」というより、(色々あって)「ここに来た」が適切ではないかと私は考える。

(念のために申し添えると、たとえ短くない試行錯誤の期間があったとしても、歌手であることだけは決して諦めなかったのだから「売らんがため」の無節操ではないのだし、「上手い」(=評価X)と言われ続けてきたのだから、「ここまで来た」と現在を一段高く見る態度を正当化できるほど「これまで」が低い状態だったわけではない。そして私は試行錯誤の努力をバカにしているわけではない。

最近、ゾンビ映画でゾンビを禁句にする日本の配給会社の謎マーケティングを町山智浩が指摘したり、「ぼくはサラリーマンをバカにしてませんよ」という記事を見かけたりもしたけれど、まさにそんな気分。→ http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/26291 

ただし「長い物に巻かれる」がオトナの知恵なのだとしたら、長い物をきれいに折り畳んで使いやすくするオトナの見識というのもあるはずで、唐突に「ここまで来た」と勝利宣言されてしまう圧力をしなやかにかわして、違和感をちゃんと言葉にしておくことは無意味ではないだろう。オトナの娯楽がガキの熱狂じゃないとしたら、今はそういう二枚腰が求められる潮目ではないかと私には思える。そういえば、コンヴィチュニーの「魔笛」の第1幕では、恐ろしい大蛇であるところのカーペットを女性たちが丸めたり四角く開いたり、ザラストロ様の前で粗相の無いようにきれいにシワを伸ばしたりしていた。知恵と見識が大蛇を飼い慣らす……かもしれない可能性に私は賭けたい。閑話休題。)

芸能人は、そのような試行錯誤の過去をもつ場合、しばしば改名したり、過去を知っている人間と縁を切ったりするので、その点でも話の平仄は合っているわけだが、でも、この「Bバージョン」の物語、つまり、努力を順当に積み重ねて「ここまで来た」のサクセス・ストーリー「Aバージョン」ではなく、流れ流れて「ここに来た」というストーリーを、私は決して悪くないと今でも固く信じております。「世間」はそういう苦労話が結構好きだし、苦労して売り出した新製品が当たらなくて、何度も試行錯誤を繰り返すストーリーは、企業人・サラリーマンにも大いに共感を呼ぶのではないかと私は思う。

「情報社会」では、昭和の芸能人と違って、簡単に「過去を消す」ことはできないので、こっちの物語を打ち出すほうが、あとで梯子を外されるリスクが少ないはず。長い目でみれば、決して悪い話じゃない。

だから私は、改めて「Bバージョン」のストーリーをお薦めしたい。

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ちなみに、今回の演奏が締まっていたのは、立ち会いの作曲家が妥協しなかったからだと思われます。それと、ネットのこのブログしか読んでない人は知らないだろうけど、私が前回の公演について書いた評は、自分でいうのもなんですが、何の先入観もなしに読んで面白いと思える内容なんですよ。上記「評価X」とは違う楽しみ所を強力にフィーチャーしてますし……。

そういった事情を踏まえてもらわないと、私の話がどういうポジションでなされているのか、たぶん、わからなくなると思うので、何か論評したい人はどうにかして入手してください。

残念ながら、「Aバージョン」のサクセスストーリーしか考えていない人たちの間では、批評が出たら、「誰が何に書いたのか」ということだけインプットして、文面を読まないのが普通であり、数字は数えるけど文字は読まない、というのが時間を効率的に使う「できる人の態度」とされているようなので、この水準での激烈なディスコミュニケーションがもの凄いところではあるのですが。

(しかも、たぶん私は「単に受動的な文化の消費者ではなく、芸術作品(公演)について自分の言葉で批評」をそれなりに成立させていると自負しますが、本当にそういうことを実際にやる人間が出てきたときに、「受動的ではだめなのか、そうか、勉強になるなあ」と言ってる当人が真っ先にツブしにかかったりするから、世の中面白いわけです。

そういう人は、おそらく、文字を読む回路(それは自分とは切り離された「素敵な世界」を眺める行為と意味づけられている)と、言葉を発する=自己主張をする回路(こっちが自分の生きているリアルな世界)が頭のなかでつながっていなくて、これまで「読むこと」と「書くこと」を結びつけることなく生きてきて(もしくは諸事情で両者を切り離さざるを得ない環境で生きてきて)、もはや自分がダブルスタンダードになっている自覚がないのでしょう。それはそれで可哀想なことではある。

言葉は、口八丁手八丁の先に、もう一段複雑な領域が控えており、「議論する公衆」というのは、そのような領域を指す概念です。パブリックな発言をすることは、優等生的なレポートをきれいにまとめることではなく、言ったことがそのまま自分に跳ね返ってくる生々しい行為です。言行不一致が暴かれてしまうことを含めての「パブリック」なので、失礼ながら、お勉強し直されたほうがいいかもしれない。)

以上、「単に受動的な文化の消費者ではなく、芸術作品(公演)について自分の言葉で批評する議論する公衆」の試みでした。いつものように。

(この話には、「議論する公共性」であるとか、世界進出というサクセス・ストーリーであるとか、という観念・イデオロギーを、21世紀の私たちは、はたして「政治的に正しい」と言いうるか、もう一回話をひっくり返すことになる続きを想定しているのですが、それはまた次の機会に。)