何にお金をかけて、誰を幸せにするか?

「お金をたくさん受け取る人=一番幸せな人」

という等式が成り立てば話はシンプルになるけれど、そうとは限らない。かなり前から、私たちは「ガメツイ守銭奴」とは違う生き方がいいんだ、と思うようになっている。そして倹約は「貧乏臭い」に位置づけられている節がある。

高度成長が一段落した1970年代からじゃないかと思いますが、「消費社会」という思想に私たちはなじんでいて、この思想では、お金を受け取る側ではなく、お金を使う(ことができる)側こそが最も幸福であることになっている。文化にお金を使うことができる人=幸福を謳歌する人、なのであって、ここから、一方で「お客様はエライ」が出てきて、もう一方で「お金を出してくれるスポンサーが一番エライ」が出てくる。

おそらくスポンサーとして文化事業に企業が名前を連ねる、名前を麗々しく出す、というのは消費社会ならではのことだと思う。

でももう一歩先の事態として、長期間お金が円滑に回っていない今起きているのは、

「お金はあるところにはある(ないところにはないけれど)」

という少々違った事態のような気がする。そしてこの状態が続くと、お金のあるなしは、人間としての幸福と直接相関しないことがわかってくる。

こういう血液循環が悪いみたいな状態でお金が必要になったときには、「とりあえず出せる人がだせばいい」であって、それじゃあそのような行事をなぜやるか、誰のためにやるか、は、お金の流れとは別の水準で考えたほうがいい。(「これは私のお金」としがみつこうとしても、お金に名前は書いてありません、というやつですね。)

そしておそらく文化事業で大事なのは、お金のやりとりとは別の水準で、文化を実際に担っている人がシアワセかどうか、だと思う。幸福に文化が営まれている状態を見て、幸福のおすそわけをしてもらうつもりで、お金を出せる人が出せるだけ出したらいい。

コンサートやオペラは、音楽家、歌手、スタッフがどういうときがシアワセなのか、今この人たちはしあわせなのか、そう考えながらやっていくべきなのだと思う。(「べき」とか言って申し訳ないけれど、でも、ここは「べき」でしょう。そしてアーチストや職人は変な人種、「タダモノではない」(タミーノ)だけれども、それでも「きみと同じ人間さ」(パパゲーノ)なのであって、動物に餌を与えるように金と名誉と拍手だけを与えておけば幸福か、というとそうじゃないし(この3つがないのは寂しそうだけれど)、でも、じゃあ、どうすりゃいいんだ、と色々考えることで「魔笛」の物語が動き出して、私たちの「文化力」が鍛えられる。)

以上、唐突な原則論ですが、びわ湖ホールにて「コンヴィチュニーとその仲間たち」の中へ入って10日間過ごした一番の感想は、そういうことでございました。必要なところにしかるべき手間と時間が費やされて舞台ができあがるのは、つかのまの夢であっても、眺めてるだけでシアワセ、みたいな。

お金やテクノロジーや名声のサイクルとは別のサイクルとして、そういうのを回すことを「文化」と言うのだろうなあと、改めてそのように思いました。

(そしてびわ湖ホールの公演は、こういう夏の教育イベントでも、歴代館長が節目に勢揃いするんですよね。気になって見に来た親戚みたいな感じで。そういうカラーの劇場になっているみたい。)

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来年はこれ。