オペラを生かすのは「音」か「人」か?

最近書いた原稿に入りきらなかった導入部。下書きなので、年号などはあとで確認するつもりで空白のままになっています。

大阪は、今では4つのプロ・オーケストラがしのぎを削り、ユニークな企画があれば東京から聴きに来る人もいる。経済の東京一極集中ぶりに比べれば、音楽では、まだ辛うじて「国内第二の都市」と言いうるかもしれない。そして大阪のクラシック音楽に東京の音楽人、音楽ジャーナリズムが注目するようになったのは、戦後関西でオペラが独特の盛り上がりを見せたのがきっかけだった。

日本人によるオペラ上演の最初は  年の「オルフェオとエウリディーチェ」、会場は上野の東京音楽学校奏楽堂であり、訳詞を手がけたのはドイツ文学者の   。その後、ワーグナーが白鳥伝説や北方神話をオペラ化したのに倣って、小松耕輔が日本神話の羽衣伝説をもとに新作を書くなど、東京でのオペラの試みは二つの官立学校、ワグネリズムに心酔する帝大生と、上野の東京音楽学校が主導した。上野の音楽学校は、帝国劇場の歌劇や、その残党の田谷力三らが盛り場へ流れて始めたいわゆる「浅草オペラ」には距離を置いたが、第二次世界大戦後には、日本オペラ最大のヒット作「夕鶴」の團伊玖磨を筆頭に優秀な若手がオペラ創作に乗りだし、  年に東京藝大の教員や卒業生によるオペラ団体「二期会」が結成される。「二期」という名には、日本のオペラが音楽学校の参入で質を向上を図る第二期に入ったという、やや尊大な意味が込められているが、この取り組みの先に、今日のオペラの隆盛、専用劇場を持つに至った「日本オペラの第三期」があるのは否定できない。

一方、関西にオペラの種を蒔いたのは、欧米人やロシア人が国際色豊かな植民地文化を花開かせる上海や満州で戦時を過ごした大陸帰りの音楽家たちだった。

オペラと東京の二つの官立学校の関係(帝大生ははじめっからオペラに興味津々だったが、音楽学校は慎重だった)、東のオペラと西のオペラのスタンスの違いは、短くまとめるとこういう見取り図になると思うのですが、

言われてみれば、東京音楽学校(東京藝大)は、オペラに乗り出したあとになっても、あくまで「音楽としてのオペラ」のスタンスで、演劇と手を組むことには腰が退けていたかもしれません。

そして明治の日本が、有力な輸出品だった日本美術と、「国民の創出」に役立つとされた洋楽(その内実は唱歌、つまりは、和歌や漢詩に相当する西洋流の「うた」だと思う、藝大作曲教育の本流とはそうした「うた」を作ることであったのだ、と言外に天皇が和歌の詠む人であることを踏まえつつ主張するのが、片山杜秀の「信時楽派」説)だけをゲージツとしてオーソライズして、演劇を放置したのは、プロイセンをお手本にしたと言いながら、その後に長く尾を引く結構大きな違いかもしれません。演劇改良がどんどん左傾化したあとであわてて強制排除するしかなくなっちゃうし、近代日本で「議論する公衆」がうまく機能しなかったのは、劇場を放置したのと無関係ではないかもしれない。

「オペラは死んだ」のだそうで、そのあとでできることは、骨を拾うように人間のいない舞台で音を鳴らすことだけだ、という発想が提案されているようなのですが、詳しいことを知らないままに勘で書くとしたら、それはオペラというか音楽劇を、あくまで「音」の側からしか見ようとしない一面的な主張ではないか、と思う。生身の人間がいて、しかるべく塩梅すると、生きた人間は音を出しちゃったり、声を発したりしちゃうものだ、それがオペラだ、という風に考えると、オペラの「生死」は、色々な音と声を出してしまう生身のヒトを「正視」できるかどうか、観る側の覚悟によるんじゃないか、という気がします。「生死」は「正視」に依存する、のダジャレですけど、でも、オペラが愛と死と笑いで成り立つのは、どれも、音と声を発してしまう典型的な行為だ、ということだと思う。

「人のセックスを笑うな」という映画化もされた小説がありましたが、もし、本当に「オペラが死ぬ」としたら、それは、愛と死と笑いが人目につかないところへ隠されてしまうときなのだろうと思う。そういう世の中は、そんなものを観ちゃダメ、ということになるだろうから。

(そういう世の中になりそうなところが、ちょっと恐くもあり、そして東京音楽学校的音楽観が、そういう風に、愛と死と笑いを正視する態度といささか遠いところに理想を置いていた(いる)ということは、言えてしまうような気がしないではないのが、困ったことかも、ですが……。劇場法を推進した演出家さんの演劇スタイルも、愛と死と笑いが露出しない抑制の上に成立しているみたいだし……。)

[以上、コンヴィチュニーに10日間かけて洗脳されてしまった頭を整理するメモを兼ねて。]