音楽の缶詰

しかし、「小菅優はシュナーベルを踏まえているから本物だ」式のほめ方は、ほめ方に芸がないと言わざるを得まい。音楽の伝統(というより私は「文化」という言葉を使いたいが)はそんなところに存続しているわけじゃあるまい。古いレコードを聴く習慣を尊重しておけば、既存の音楽産業には好都合だが。それに、ラフマニノフの演奏は、聴いたらドイツ人も誉めたんじゃないかと思う。米国製のレコードが大量にばらまかれたことにうんざりした人はいただろうけれど……。

国境ですっぱり区切れるはずのない諸事情を国名に紐付けた流儀・流派としてラベリングする物言いが20世紀前半で既に一度失効したことは、第一次大戦後の音楽界の主要人物のほとんど全員が移民・亡命者・マイノリティだったことを考えればわかるはずだ。そして一度失効したものをカタログ作りのために再利用したのがレコード産業。「作曲の時代は終わり、これからは演奏の時代だ」とか言っちゃって。

繰り返すが、吉田秀和が「レコード聞き比べ」的な話法(ルール)で読者に語りかけたのは、ステレオ&レコードを通じて音楽にアクセスする文化が広まって、そこに一番厚いファン層がいる時代だったからであって、彼自身は、最後の遺言的な四部作が示すようにその文化の「中」に閉じ籠もっている人だったわけじゃない。

天下のいずみホール様が、極東の多湿な島の一角に、素晴らしい生きた名ピアニストの面々を買い付けて、ご招聘くださる有難いお慈悲の恩恵をわたくしたちは被っているわけでございましょう? 彼ら彼女らのパフォーマンスを、たかだか半世紀(エジソンから数えても百年)ちょっとの歴史しかなくて、産業的には既に下り坂かもしれない風習に縛り付けて聴くように誘導してどうするのか。

出来たての料理を冷めた缶詰基準で品評するのは止めて欲しい。

そういうのをこそ「カリスマの世界」に知らずに加担させられていると言うのではないか。(ウルトラセブンでクラシック音楽入門、シューマンの聞き比べ、とか、アファナシエフ言うんだったら、そういうのこそ娯楽産業の狡猾な罠である、と論陣を張ってはどうか。偏屈を極める21世紀のアドルノ路線ということで。)

缶詰の品評、この季節にはこの一品、という歳時記が、四季を愛でるこの国の文化として成立しているかもしれないのは認めるとしても……。

(そういえばコンヴィチュニーの「魔笛」では、パミーナの精神錯乱の表現として、これから歌うことになるナンバーの1930年代のSPレコードの音が会場のスピーカーから流れてくる(幻聴として彼女だけに聞こえている設定)、という演出があった。彼女は「やめて〜」と耳を塞ぎながら叫ぶ。

ライブ・パフォーマンスで、これから演奏する音楽を先にレコードで聴かせる、というのが酷い行為なのは承知の上で、敢えてルール違反を犯しているわけ。(さらにこれは、そのあと彼女が、信じてもいない教団の信仰を無理矢理歌わされる、という展開への伏線にもなっていて、そもそもコンヴィチュニーは、そこで歌われるナンバーの歌詞が偏見に満ちた酷い内容なので、本当は歌わせたくない、だからこのナンバーを「潰してしまいたい」と思っていたみたい。)

音盤という缶詰はライブ・パフォーマンスを潰す凶器になり得る。

この文化的前提は、あなた的にちゃんと把握できているのでしょうか?

あなたの考えは、過去の演奏史という缶詰によって背後から現在を押しつぶすのは「伝統尊重」という素晴らしいことであり、しかしまた、そうなりうる現実のなかで、若い人が缶詰との新しい付き合い方を模索することは「音楽への冒涜」である、という論理構成になっているように見えるのですが。それって、生きた音楽を缶詰の山で前と後ろから押しつぶしてぺっちゃんこにしてしまうんじゃないですか? その「現在」蔑視はどこから来るのか。

「箱庭作り」が趣味なのはいいけれど、箱庭以外の風景を認めない、とか、世界がすべて箱庭であればいいのに、とか言っているように見えるのだが。)