レコード会社や楽譜出版社がなくても音楽はできる

(つづき)

話は飛ぶが、前から常々疑問だったことをついでに書く。

演奏家や作曲家と契約する全国規模のレコード会社や楽譜出版社は東京にしかない。(出版社や各種雑誌は大阪にもあるけれど。)

エクリチュールの添削とか、演奏史を参照した正統性とか言うけれど、そもそも自分の曲や演奏を広域的な楽譜と缶詰の配給ネットワークに載せる回路がない状態というのがあって、それでも、作曲家がいて、オーケストラがいくつもあって、劇場を運営することは不可能ではないし、成り立ちを見ていくと、それは決して、雑草が勝手に生えているわけではないことがわかる。

都市というのは、一度できるとそう簡単に潰れないし、稼働し続けながら何かを生み出すということだ。それは決して「何でもありのデタラメ」なわけではない。(オペラ全盛期のイタリアだってまともな楽譜出版業はなかったのだから、劇場音楽にとって、出版はスキップ可能な副次的要素でしかないのでしょう。)

大久保賢は、こういうのをどう考えているのだろう。思考と感性のメガネが遠くにしかピントの合わない強度の遠視状態で、目の前のものはピンボケでよく見えないのだろうか。

(そういうタイプは、クラシック音楽の周辺に結構いて、だからこそ輸入雑貨店的経営法が成立するわけではあるけれど。そしてこういうタイプに限って、お姉様方の飛び込みの営業に圧倒されて、あっさり絡め取られたりするのが人生の機微というものではあるけれど。)

ヒンデミットに興味があるんだったら、中瀬古和を調べたらいいんじゃないかと思う。今はちょうど、大河ドラマで同志社がいい感じみたいだし。