(もひとつ、つづき)
「クラシック音楽がつまらなくなったのはコンクールのせいだ。入賞歴をひっさげてデビューする連中は、どれも判で押したように画一的な演奏しかしない」
というのは、古き良き演奏を愛でる一部ヒョーロンカが耳にたこのできそうなほど繰り返す紋切り型で、このあとに、コンクールの減点法とか審査基準がいかにダメか、それにひきかえ、かつての大演奏家たちは……、が続くわけですが、
世界にコンクールがいくつあるかは知らないけれども、入賞したとしても大手レコード会社やマネジメントと契約できるのはそのうちの何割かでしかないはずで、ざっと見積もっても、日本にツアーでやってくる程度に「モノになる」のは、各社それぞれで、何年かに一人くらいのはず。
ということは、仮にその人たちが「どれも判で押したように画一的な演奏しかしない」というのが事実であったとしても、サンプル数は、世界の全ピアニストのコンマ数%以下くらいでしかないわけですよね。その背後には、ピアニストとして修行をして、何らかの形でピアノを弾くことに一生携わるけれども、コンクールには出ない、出てもワールド・デビューなどしない人たちが膨大にいるわけです。
そういう人たちすべてが、はたして「どれも判で押したように画一的な演奏しかしない」のかどうか? そういう人たちはコンクール様式に義理立てする必要などないのに?
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でも、コンクール批判をする人たちは、コンクールのやり方がおかしい、と言っているわけで、……ということは、そのようなダメなコンクールから漏れた人たちのなかにこそ、いいひとがいるかもしれない、わけですよね。
つまり、現在のピアニスト界は、もしかすると、コンクール入賞などというバカな目標を掲げて「どれも判で押したように画一的な演奏しかしない」ごくごく少数のヘボと、そんな愚かな道には進まなかった大多数のマトモから成り立っているかもしれないわけです。
だとしたら、結構いい世の中じゃないですか。
少なくとも確率論的に考えれば、コンクール入賞などという妙な肩書きにまどわされるとヘボに当たる確率が高く、そんな肩書きにまどわされないほうが、いい演奏に当たる確率が高まる、かもしれないわけです。
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ところがその種の「コンクール批判」の人たちは、多くの場合、こまめに自分の足で人を捜したりはしない。(そのうえ、コンサートへ行かずに音盤だけしか聴かない、という風に、どんどん自分で自分の首を絞めるようなことをしたりする。)
で、たまたま何かの機会に知り合ったピアニストを、「あなたは違う、あなたこそが選ばれた人、ピアノ音楽の将来はあなたにかかっているううううう!」と狂喜乱舞で絶賛したりする。
だから、コンクール至上主義でそこへ凝り固まってる人のほうが数としては少数なんですってば。
世間知らずにおめでたく滑稽な話である。