世界の片隅

音楽にも、録音・複製物という「もの」の形で流通する局面があるし、美術にも、展覧・展示というパフォーマンスの側面がある。

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

音楽の録音・複製物のカタログを眺めていると、「前衛音楽」「巨匠の名演(名曲名盤)」「ポピュラー音楽」という分類が見えてきて、

ラッセンとは何だったのか? ─消費とアートを越えた「先」

ラッセンとは何だったのか? ─消費とアートを越えた「先」

  • 作者: 原田裕規,斎藤環,千葉雅也,大山エンリコイサム,上田和彦,星野太,中ザワヒデキ,北澤憲昭,暮沢剛巳,土屋誠一,河原啓子,加島卓,櫻井拓,石岡良治,大野左紀子
  • 出版社/メーカー: フィルムアート社
  • 発売日: 2013/06/26
  • メディア: 単行本
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美術の展示を一巡すると、「現代美術(前衛)」「公募団体展」「インテリア・アート」という上演形態の違いが浮かび上がるらしい。

では、ゲージツの「もの」の側面とパフォーマンスの側面を掛け合わせるとどうなるか。

前衛が世界の片隅にあって、インテリアやポップスが世間の中心にどーんと広がっている、という、ごく普通の景色。

(たぶん文学でも似たようなことが言えて、「芥川賞」は、隅っこの前衛ではなく、もうひとつ内側の領域にあるのだと思う。そして小谷野敦の説を拡大解釈すると、実は普通に思われているのと違って、私小説を極めるとどんどん隅っこへ行くことになり、作り事は物語の型と戯れざるをえないから、実はインテリアやポップスに接近していくのかもしれない。舞台でもリアリズムのストレート・プレイ(新劇=純粋台詞劇)は実は前衛への入口で、オペラやバレエはお約束が多く、作り事のエンターテインメント成分を多量に含む。)

世界の片隅だ、とあからさまに言うのは忍びないから、まるで「前衛・古典・ポピュラー」の3つの分野が横並びであるかのように言いつくろっているだけなのかもね。

広い真ん中へ仲間入りする生き方もあるが、「一角を死守する」という生き方もある。そして片隅から落っこちたところに「外」がある、と考える人もいる。

もっとたくさん仲間(客)とお金が欲しい、とか、隅っこの人外地は恐い、という人は真ん中のほうにいればいいのだし、隅っこのほうに頑張っていてお腹が減ってきたりすると、「悪霊退散」「あの女は魔女だ」とか、隠者と言えどもまだ修行中の未熟者は、真ん中でわいわいやってる連中に向かって呪いの言葉を吐いてしまうこともある。

当たり前のことをわざわざ図にする意味があるか。強いていてば、録音・複製という「もの」の論理と、展覧・展示というパフォーマンスの論理を混同する勘違い野郎(←男とは限らないか……)が世間には多いから要注意、ということだろうか。

名曲名盤という「もの」の仁義を踏まえないような演奏者・演奏団体は無である、という、ホロコースト的演奏論が存在するのは既述の通り。(有名演奏家・有名団体が特別なものに見えるのは、彼らを国際市場で高値売買する「もの」の流通の論理であり、それは「画一的」かもしれないコンクール上位入賞者の場合でも、神々しく独創的かもしれない往年の大演奏家でもいっしょです。ライヴ・パフォーマンスの組み立て方に決定的な違いがあるわけじゃない。)

そしてしばしばライヴ・パフォーマンスに「世界初演」の文字が躍るが、そのパフォーマンスに関わる何か(楽譜なのか録音なのか)を「世界」へ流通させるルートがないんだったら、んなもん「世界」は関係なくて、それはそこに集まった数百人の体験であり、だから、そこへ来てくれた数百人を「手段ではなく目的として」(←「議論する公衆」の理念の確立に寄与したカント大先生の言葉だヨ)、丁重に処遇しないと罰が当たる。

「我々は世界を相手にしているのであって、ここはお前なんかの来るところじゃないのだが、せっかく来たのなら、まあ入れてやらないこともない」

とか、アホちゃうかと思うわけで、実際には、上の図のインテリア/ポピュラー寄りに軸足を移したら観客動員が安定した、という当然の成り行きに過ぎなかったりする。(既存の地元自主公演団体と差別化できさえすれば、世界の片隅へ向かう前衛であろうが、世界の中心へ向かうポップ化であろうが、義太夫だろうが水玉がいっぱいだろうが、営業的にはどれでもいいわけで……。)

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少し前に、

「未来の音楽はデジタル=録音・複製に完全に移行するヨ、ライヴ・パフォーマンスは死んだも同然、アナログは古い古い!」

みたいな話がポピュラー音楽関係者にさかんに吹き込まれ、「もの」を複製してばらまくのが新しい、みたいな風潮があった。

どうやらそんな単純な話ではないらしいことに(そしてデジタルに乗ればポピュラー音楽=サブカルチャーが次世代のメインに昇格できる、なんて、そんな夢の下克上が簡単にできるわけではないことに)、ポピュラー関係の人たちが気付き始めている今頃になって、今度は、相対的に情報に疎い(けれども本人たちは「意識が高い」と自負している)クラシック業界がITの狩り場になっているらしいわけだが、どうなることやら。