プレミエ考

「今日は私にとって特別な日です」

通し稽古とダメ出しを終えた最終日のお昼休み前、1時間後には発表会というときに、コンヴィチュニーは急にそんなことを言い出した。

何かと思ったら、「これから若い人たちの手で魔笛の幕が開く。プレミエです」という演出家としての御挨拶だった。稽古は時間をびっちりつかって隙間がなく慌ただしく進行していたので、そんな改まった話がはじまる心の準備が場にできあがっておらず、ちょっとびっくりしたが、でも、なるほど、やっぱりこの人は育ちの良い「劇界の御曹司」なんだな、と思った。これはたぶん、歌舞伎役者が舞台に上がる前に劇場の神棚の前で手を合わせるのと一緒。そういう心構えを含めて、演出家の仕事(というより「責務・使命」に近いかも)を全部見せようとしたのでしょう。(こういうのは、仮に毎回必ず同じようなことを言うのだとしても、でも、言わなきゃだめなんだと思う。)

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初ものが美味しいとはかぎらない。

演劇の一ヶ月公演は、初日やその前に取材が入って、もう一回、終わりのほうに批評家を入れた取材日を設定したりすると聞く。

プレミエ・初演と言っても意味は色々で、ロングラン公演を前提としたミュージカルは、地方でスタートして練り上げてからブロードウェイに来ると言うし、團伊玖磨の「夕鶴」や清水脩の「修禅寺物語」が大阪で初演され、そのあとすぐ東京で上演されたのも、「大阪こそが初演地だ」といちおう言っておかねばならないけれども、でもたぶん当人たちの意識は、大阪で試演して練ってから、いよいよ東京が本番、だったと思う。

(「夕鶴」をはじめとする木下順二とぶどうの会の芝居の多くもそうで、いきなり東京公演をやらないのは、東京公演に向けて調子を上げていく意識なのでしょう。

だからといって、先にストラヴィンスキー「エディプス王」を関西歌劇団がやっているのに、そのあと東京の団体が自分たちの公演を「日本初演」と宣言して、関オペさんのは関西初演でしょ、と言ったとか言わないとか、そこまで東京中華思想の「本音」を露骨にだすと、それは角が立ちます(笑)。)

プロだったら最初から全力投球しろ、と言うのはシロウトの意見。本当のプロだったら、初日にベストを尽くすのは当たり前で、でも、その経験を踏まえると、次の日は初日よりさらに良くなったりすることがひょっとするとあるのかもしれない。細かい調整は少なくとも色々できそう。そういう想定で、「初日がすべて」とは考えないことになっているようだ。

コンヴィチュニーは、本番のあと、「幕が開いたら演出家は消えます、そして作品は、演じるあなたたちの中にあるのです」と、またもや泣かせることを言ったわけだが、劇場は、初演=作品の誕生であり、公演が続くことでその作品が育っていく、というイメージがぴったりくる制度だと思う。

生まれる瞬間だけ見て、あとはポイ、みたいなのではない作品との長いつきあいを想定しているからこそ、「プレミエ」が特別な意味をもつ。

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一方、初演が一回きりの公演である場合、これはむしろ、「福袋」(何がでるかは開けてからのお楽しみ)とか、「期間限定」(今をのがしたら二度とお目にかかれませんよ)に似てくる。

酷いと思うのは、「ネタバレ禁止」という、たぶん推理小説では批評であれ何であれ、犯人を種明かしする文章を発表するのはルール違反だ、という風習あたりから来たのだと思うけれど、映画や小説のように筋があるものだけでなく、音楽に対しても、初物の詳細は「ネタバレ」になるからあまり言えません、知りたかった会場へどうぞ、などというのは、見世物小屋の口上だと思う。どうして客の側がそんなもんに加担せねばならないのか意味がわからないし、知ってしまったら効果が減る程度の子供だましなんだったら、いちいち「世界初演」言うな、と思うわけです。

「ネタバレ禁止」は、それを強調すればするほど、プレミエされる作品の「格」を落として、使い捨て商品なんだな、というイメージをその作品に付与することになる。

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ただし、かつて前衛・実験がさかんだった頃には、「見てのお楽しみ」「さて何が出てくるか」という興味でコンサートに通ったのだと思うし、そういう見せ方は、今でもあり得る。(誰も知らない妙な音楽を楽しそうに上演してみせるグループは、どこの街にもいる。)

一回こっきりの「初演」は、劇場風のこれから長いつきあいになる「作品」の「誕生」、という風な面倒な音楽とのつきあい方に抵抗するアナーキーでフットワークの軽い人たちが、その種の構えを崩すためのデモンストレーションになり得たし、その意味で、ハプニングや偶然性が話題になった時代ならではの「プレミエ」の事件性、というのはあり得たのだろうと思う。

そして今はどうかというと、そのような「開けてびっくり、福袋」のネタが尽きたときに、一回こっきりの「初演」をイベントとして特別視することに果たしてどういう意味が残るのか、そこがよくわからない。

21世紀の同時代音楽と本気でつきあう覚悟がある人たちは、ちゃんと考えた方がいいんじゃないだろうか。

(そしてもちろん、考えた結果は、ちゃんと形にして見せなければいけない。露骨にけばけばしくやれ、という意味ではないが……。)

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それから、ライヴ録音について一言。

録音を世界へ向けて発信することになっており、だからこの公演は、お客さんは数百人だけれども「世界初演」なのです、という言い方は、やっぱり私には承服しきれないところがある。

良い録音を撮るためにお客様も御協力ください、というのは、名所旧跡に行って写真とビデオだけ撮ってさっさと帰る観光客みたいで、どーして、そんなもののためにポーズを決めなければならないのかと思うし、

それにそのロジックは、

「多国籍企業をこの街に受け入れて、その企業の便宜をはかることは、企業が成長したときに、回り回ってそのおこぼれが地元へ落ちてくるはずだから、街のためになるのです」

という開発の論理に似ている。でも、工場を作るときにはそんな風に調子にいいことを言うけれど、実際に稼働したらやりたいほうだいで、「私企業は利益追求をやって当然だ」と居直られたりするケースもあると聞く。というか、これは、グローバリズムの問題として言われていることそのものです。

ご不便をおかけする、と本当に思っているんだったら、その場で、本気で頭を下げなければいけない。

(もはや、ライヴ録音を世界同時発売、とか考えている時点で、神戸の商店街の心温まる本屋さん、とか、そういうのとは根本的に違う産業構造の網の目に入っちゃっているわけだから、夢を見ている場合ではない。)

……等々、ひとつひとつは小さなことだけれど、あるコンサート(の会場)の雰囲気は、そうした小さなことの積み重ねで、なんだか胡散臭い感じにもなるし、とても気持ちのいいものにもなる。

経営とか「もの」の論理(前のエントリー参照)の教科書には書いていないところで、ライヴ・パフォーマンスが生きたり、死んだり、腐ったり、光彩を放ったりするのは、そういうことだと思う。

(あくまで一般論だけれど、メセナ系ホールはそっち方面が手薄なことが時々あって、それは、ひょっとすると構造的にそうならざるを得ない事情があるのかもしれないなあ、と私は思っています。企業が、企業としての体質と一線を引いたところでライヴ・パフォーマンスを切り盛りするのは、通常思われている以上に大変なことなのではないか。

もちろんだからこそ、一種の「試練」として挑戦する価値があって、我と思わん企業が名乗りを上げるのでしょうし、

結局は「人」だ、ということで、色々足りないところを「人間力」で補う魅力的な個人がいたりすることもあり、一長一短ではあるけれど、良い状態を長く続けるのは何かと苦しそうに見える。

おそらくしかしそれは、芸道というのが、入門者は多いけれども最後までやり抜く人は少ない、という、これまた普通にみんなが知っている事実のヴァリエーションに過ぎず、だから、続いたら立派だけれども、途中でやめても不名誉ではないんだと思う。そのくらいの気持ちでやれることをやれる範囲でやったほうが、きっと逆に長続きするのでしょう。

パパにおねだりしていきなりスタインウェイを買ってもらって、半年でレッスンをやめちゃうお嬢様、というのもひょっとしたらいるのかもしれないし、どうせ長続きしないだろうと思ってバレエを始めさせたら、あれよあれよという間に、ロンドンだかの学校へ留学しちゃう人もいるのかもしれないし。他人に迷惑をかけない範囲でやるんだったら、好きにすればよろしい。都会はいろんな人がいる。

私企業の経営というのは、部外者にはわからない複雑怪奇なものに成長しているのだとは思うけれど、文化・芸能の世界へ入ってきたときには、外の世界でどれだけ立派だったとしても、「金持ちの道楽」というありきたりなキャラからスタートするしかないし、そういう見られ方が不満だと言っても、そうなんだから、そうだと言うしかない。途中で急に威張ってブチ切れられても困る。春琴に横恋慕する利太郎じゃないんだから(←あ、三木稔の「春琴抄」は、いずみホールでやったんでしたね)。)