「才能」の話をしてもつまらない

「クラシック音楽に謎はない」という話の補足。

わたしたちは、稽古やレッスンの現場で「才能溢れる人」がえこひいきされたり、「どうして、何度言ってもできないの、あなたには才能がないのよ、もう、やめてしまいなさい」と叱られたりする風土で育ち、もしかしたら、今もそのような風土は次世代へ再生産されているかもしれないわけですが、

そもそも「才能」とは何か、定義や説明がひょっとすると原理的に不可能かもしれない議論はさておき、

(「才能」という言葉は、要するに「天才」の語を政治的に正しく、事なかれ主義的に言い換えた言葉で、言い換えたところで性質に違いはなくて、生得の気質・適性や環境要因、後天的な学習・修行などでは説明できないある種の質なので、定義上、説明できないし、実在するかどうかもよくわからない、「オレには才能がある」という自惚れや「あなたには才能があるのよ」という買いかぶりを排除したところに何があるか、見極める術があるのか、そのようなことを見極める術を誰が「自惚れ」や「買いかぶり」でなく身につけていると言えるのか、「才能」にまつわる事柄はとかく日常の実感から遊離しがちで、主観的一般性とか、なんかもの凄い枠組みを持ち出さないと収まらなくて、これを自然科学と架橋しようとすると壮大な話になるみたい)

しかしそれでも、小澤征爾がこれと見込んだ若手には「常に一流の人と仕事をしなさい」とあっさりアドヴァイスしたりするように、贔屓や叱責で波風を立てるまでもなく、本当に「才能」のある人はさっさと居るべき場所を見つけていると想定されており、どのあたりにそういう人たちがいるか、ということも、通常、公然と知られている。

見ればわかることを、ことさら、「才能がある/ない」と判定するのはつまらないし、現状では、「才能めっけ!」と指さす軽やかな意識の高さ(セゾン文化のなれの果てっぽい)と、「ここに類い希な才能がある、しかし、それがどのようなものであるか、それを語るのは人生最大の難事である」みたいなしかめ面(小林秀雄のある種の部分が流れ流れてここに来た「美しい花」の訓話、戦後下町ヴァージョンで、海を見て「うっ」と唸る言語の美、という話もあり、最近では飛行機を作る技師(に自己を仮託するアニメーター)が美の虜になる様が人を感動させたりもしているらしい)の組み合わせは、わかりきったことに人々の視線を縛り付けることにしかならない。

たぶん、一定の場所・作法に人間を固定しておくと、決め打ちで色々な制度を作ることができて効率的だからそうなっているに過ぎないのだと思う。(駅の片側通行の矢印と一緒です。効率の追求は、貧乏人(含む、私)の節約にも役だつので全部をやめるわけにもいかない。)

才能がある(と想定されている)人に対してはそういう人なりに、そうでない人にはそうでない人なりに、色々な言葉を自由に届ければそれでいい。ピラミッドは、あるところにはあるけれど、ないところにはない。それで別に困りはしない。

これで何か問題がありますか?

(小谷野敦は、誰はバカだ、とか、誰は才能がある、という感じのコメントをズバっと言うのが得意で、どうやらファンはそこでしびれるみたいなんだけれど、あれは、シーンとシーンのつなぎ、フレーズとフレーズの間を埋めるドラムのリフ、フィル・インみたいなもんだと思うんだよね。そうやって、「才能」談義が好きな層をつなぎとめる。実証を藝に仕上げるひとつのスタイルなのでしょう。啖呵を切る技能は批評文の基本だし、それをどこでどう使うかでスタイルが出来上がる。)

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それはともかく、フェニックスホールくらいのサイズだと、ひとりのアーチストと長くつきあうプランを組みやすそうですね。昔はもうちょっと大きなホールで定期的にコンサートを開いて人が集まっていたようにも思うので、ここより一回り大きいところがそれだけではやっていけずに色々工夫しなきゃならないのは、全体として市場が縮小しているということなのだろうか……。そうではなく、小さいものは小さいし、大きいものは大きい、ということで、あまり危機感を煽る話ではないか。中くらいのものは中くらいだ、と。