美人投票と批評

美人投票(びじんとうひょう、英:Keynesian beauty contest)とは、金融市場における用語の一つ。

ケインズは、玄人筋の行う投資は「100枚の写真の中から最も美人だと思う人に投票してもらい、最も投票が多かった人に投票した人達に賞品を与える新聞投票」に見立てることができるとし、この場合「投票者は自分自身が美人と思う人へ投票するのではなく、平均的に美人と思われる人へ投票するようになる」とした。

美人投票 - Wikipedia

40代以上のオジサンたちは、このケインズの美人投票の話を土地投機バブルの80年代とその反省という文脈で散々聞かされたものでした。

で、いわゆるポストモダンは、68年新左翼に随伴したフランスの活動家的な言論人の思想を80年代の英米アングロ・サクソンとニッポンが一週遅れてもてはやしたようなところがあって、そのなかでは、「自分が美人だと思う人」へ投票するのは、もう終わっている古くさいモダニズムで、「一番得票しそうな人」へ投票するメタでシニカルな態度がポストモダンなんだ、という言い方があったりもしました。

とことん狂って自滅した先にユートピアが到来する、というような話だったわけですね。

ケインズは政府が市場へ介入することが時として必要なのだ、という学説の人ですから、たぶんこの美人投票の話も、投資というのはほっとくとこういう風に暴走するから、自由市場を無邪気に信じていてはダメなのだ、というたとえ話として出したのだろうと思いますが……(半可通で間違っていたらごめんなさい)、

でも、どうやら未だに、この話が「投資のコツ」、プロはこうやって投資する、という、儲け話として流通していたりするようで、金に目の眩んだ人たちは、カモにされて哀れなものだと思ってしまいます。

サウンドとメディアの文化資源学: 境界線上の音楽

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逆に、この本のメインの話題についてはさておき、序論で、音楽の価値が社会的に構築されたものだと説明したいらしき箇所に出てくる紙幣の喩え、「紙幣なんてのは国家が価値を保証しているから成り立っているのであって、国家が無効と宣言すればただの紙切れになってしまう」という主張は、個々の貨幣の話としてはそうなることが多いかもしれないけれども、だったらなんで旧ソ連で闇ドルが流通したんだ、とかあるわけだし、貨幣経済の説明としては怪しい気がします。学問というより落語か牧師の説教みたいだ。

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音楽で言えば、ケインズの美人投票の話は、

「100のコンサートの中から最もいいと思うコンサートに行ってもらい、最も入場者が多かったコンサートに来場した人達に(のみ)感動が与えられる」

というシステムに見立てることができて、このシステムだと、

「聴衆は自分自身がいいと思うコンサートへ行くのではなく、平均的にいいと思われるコンサートへ行くようになる」

みたいなことだと思います。

で、マーケティングのプロと称する人たちは、美人投票のたとえ話を持ち出しながら、

「コンサートでいかに良い音楽をやっているか、をアピールするだけでは勝てません。そうではなくて、このコンサートは「みんなが平均的にいいと思いそうだ」という雰囲気を生み出さなければ行けないのです。そのためには……」

みたいにセミナーで話して、コンサル料を稼いだりするのでございましょう(想像ですが)。

「全米が泣いた」とか、「あの有名人が○○のファンなんです」とか、「○○さんが、権威あるあの雑誌に登場」とか、そういう風にやるわけですね。

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だいたい何の話をしようとしているか、予想がつくかと思いますが、

しかしながら、残念ながらコンサートは「感動」という利益を回収する投資ゲームじゃないし、「感動」は観客動員数と比例する、という法則があるわけでもない。

そしておそらく、そのことをあっさり暴露するのが批評なのだと思います。

「圧倒的な人気を誇るにも拘わらず、この人は××だ」

とか、聴いたらわかるし、わかったことはそのように書かざるを得ない。

もう一回捻って、

「この人は××ではあるけれども、それにもかかわらず圧倒的な人気があるのは、おそらく△△だからだろう。」

というところまでツッコムほうがいいかもしれませんが、

いずれにしても、批評は、投資ゲームにも似た夢から覚めて、すっきり日常に戻るための手順、コンサートという非日常を締めくくる作業なのだと思います。

まさか、こんな基本中の基本を知らずに仕事をしている人がいるとは夢にも思いませんでしたし、こんなことをいちいち説明するのは、かえって相手に失礼だと思うから黙っていましたが、どうやら、よくわかっていない人がいるようなので、敢えて書いておくことにします。

いつまでも夢の中で生きていたい、この夢がいつまでも覚めないで欲しい、決算はできるだけ先送りしたいと欲望しても、必ず決算の時は来る。そして批評を拒否するのは、監査のない決算書のようなものだと思うんですよね。

わたし、何か間違ったことを言っておりますでしょうか?

コンサートは営利事業じゃないので、外部監査がなくても決算は承認される。我々はそのような新ルールで運用する新しい事業体なのだ、というのであれば、まあ、それでもいいわけですが。