今回の稽古場は全体に騒がし過ぎた。関東人はリハーサルに立ち会うときのモラルを忘れたのか?

東京勢が大量の人員と言説を発生させておるので、ワシは、対抗上、敢えて、「京大系」(ワシの音楽学の恩師は京大美学卒じゃ)なのかもしれぬ原理的なことを書くが(笑)、

ひとつの公演を作りあげつつある稽古・リハーサルとは何であり、そこで発せられる言葉はどのような意味と役割をもつのであろうか。そして我々は、その言葉をどのように扱うべきなのであろうか。

コンヴィチュニーの演出家養成アカデミーをつまみ食いしに来た人たちの多くは、どうやら、そこがどういう場で、そこにいる人たちがなにをやろうとしているのか、ということをすっとばして、コンヴィチュニーという「高名な演出家」にひたすら注目して、彼の言葉を、マスコミ向けのインタビューとか講演会とか著作とかの言葉と同等に、自由に切り貼り・引用できると楽天的に考えているようだが、それはちょっとおかしいのではなかろうか。

強い言葉を使えば、「あんたら、ちょっと頭のネジが緩んでるんとちゃいまっか?」って気がするぜ。

同じことはそこで鳴り響いている歌唱と演奏に対するリアクションにも言うことができて、今そこで進みつつあるのは、リハーサルじゃないですか。リハーサルの歌唱と演奏に対して、本番に対するときと同じやり方で「感想」を述べるのって、どうなのだろう。

21世紀の日本の音楽ジャーナリストが稽古やリハーサルの「聴き方」を忘れてしまったのだとしたら、それは、音楽文化の取り返しの付かない深刻な劣化として、猛省されるべきではないだろうか。

もう終わるから、敢えてオレ様発言するけど、白石知雄さんが、どれだけ注意深く、稽古やリハーサルの言葉や歌や演奏を、本番や対外的なスピーチとは違う種類のものとして扱おうとしているか、ちょっとは見習ってもいいんじゃないか(笑)。

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あのね、今回、コンヴィチュニーは、稽古の最中、例年よりナーバスなんですよ。それは、「静かにしろ」って何度も注意していることから、わかるでしょ。

で、彼が何をいらだち続けていたかというと、歌手を含めて、その時その時の発言とか、歌とか、所作とか、脊髄反射的に人がいちいち大げさにリアクションして、なかなか先へ進められないからなんですよ。

日本人は、いつから、モノを作る場での振る舞い方を忘れてしまったのでしょうか?

しかもその上、さんざん、リハへ来てギャーギャー騒いで、本番は聴かないって、それ、いったいなんやねん。めちゃめちゃ行儀悪いやんけ。トラヴィアータの舞台上で、地獄のように照明が変化したなかで騒いでいる社交界の「バカども」と、いっしょやん。

(あのシーン・演出、シラけ切った客たちが一発芸的なネタにつかのま「笑いwww」を返して、またすぐに退屈しちゃう姿、あるいは、その裏面として、きっかけがあればナイフとフォークをもって大暴れに「炎上」しちゃ姿は、「今の日本人ども」におのれの姿を赤裸々に見せつけていると受け止め、余計な付け足しではない問題提起と真摯に受け止めるべきだと思いますね。アメリカ嫌いで東アジア系の若い奥さんと一緒にびわ湖へやってきた東独出身の演出家が、一発、やらかしたんですよ。みなさん、ちゃんと怯えましょう。(鈴木淳史さんには、もちろん第2幕も素晴らしかったですけれど、1幕やフローラの夜会の「2ちゃんねらー」っぽいコーラスの扱いも観て欲しかった……。))

そして一方ヴィオレッタは、社交界の(裏の)華ではあるけれど、だからこそ、と言うべきか、周りでコートの取り合いをして大騒ぎしてる人たちに混ざらないだけの教養と見識を身につけた気高い女性として造形されているわけです。そしてそういう演出を考案した演出家は、「教会」(カトリックの、つまりはバチカン)という言葉を「キリスト教全般」と混同して、微妙な問題を粗雑に混乱させるようなウッカリさんではないと考えた方がいいと思います。

http://plaza.rakuten.co.jp/casahiroko/diary/201408070000/?scid=we_blg_tw01

(加藤浩子さんの質の高い文章には、いつも敬服しておりますし、手堅いバッハ研究から出発されたらしいことがご経歴から推察されますが、だったらなおさら、コンヴィチュニーが「教会」という言葉の扱いにどうしてこだわったのか、彼の発言とされるものの出所やその背景・脈絡などについて、まず、バッハの伝記研究やテクスト・クリティークをするときと同じ慎重な手つきで足場を固めてから論評なさったほうがよろしいのではないでしょうか。信仰の問題がきわめて高度に政治的であることは、おわかりになっているはずです。そしてコンヴィチュニーはバッハが最後に暮らしたライプチヒで育って、しかも彼がそこにいたのはナチス独裁から社会主義の東独へ、そしてドイツ再統一へと政治情勢が大きく動いた時代です。しかも旧東独を飲み込んで「統一」しちゃった西ドイツの最大政党は、ラインラントとバイエルンのカトリック教会を支持母体とするキリスト教民主同盟であり、ドイツは、あまり評判のよくなかった前の教皇を生み出した国ですやんか。彼や彼を含むドイツ人が20世紀後半の歴史のなかで「教会」の何を目撃したのか、私たちは、ほとんど知らない。twitter のログから拾い出した文言をコンヴィチュニーの見解であると即断して、そこから議論を展開するのは、早計ではないでしょうか。)

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ちなみに、確認してみたら、このDVDの日本語字幕は、歌詞のどこをカットして、どこをどう変更したか、正確にフォローできていないですね。

あと、ヴェルディはヴィオレッタに自分の妻を重ね合わせた可能性が指摘されますが(実証研究のなかで諸説あるにしても)、コンヴィチュニーは、それについてはこの10日間で一切何も言わなかったけれど、そのことを知らないはずがないし、知った上で、たぶん、自分が演出するヴィオレッタ像に、彼自身が愛した、あるいは、愛している女性のあれこれを重ね合わせているんじゃないかと私は思う。彼のようなタイプの演出家だったら、役柄を自分自身と重ねることを求め続ける彼だったら、そういう風にしないほうがおかしいでしょう。だからたぶん、トラヴィアータは、彼にとっても特別な作品なんだと、私は思います。私小説ならぬ私演出。

もう本番を残すのみだから書いちゃいますが、そして稽古場の後ろの席には、ときどき、コンヴィチュニーの奥さんがちょこんと座ってらっしゃったりしたわけです。そういう環境で今回の稽古は進んだんですよ。

(ゲネプロのあとのだめ出しで、ジョルジュ役の子に、「このオペラを作ったのはジュゼッペなんだよ」とコンヴィチュニーが言ってましたが、それは、このオペラのなかに、作曲家自身が、まるで自分の映画にカメオ出演するのがお約束だったヒッチコックみたいなことをやっているよ、という意味ですよね。もちろんジョークだけれど、トラヴィアータのこういう演出がいよいよ明日、幕を開ける、というタイミングで言うから、このジョークは味わい深いわけですよね。)

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関東人は知らんと思うけど、滋賀・近江の気質は京都と似たところがあります。だから、「お茶漬けどうぞ」って言って、どっかり座り込んで食い散らかしても、その場では絶対に嫌な顔はしません。礼儀作法というのは、人に言われてするもんじゃなく、自分で自分を律するものです。

(去年、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーが中心になってやった「魔笛」の稽古は、もっとずっと集中してたよ。関東勢、歌手の諸君も、声はいいかもしれないけれど、そのデカい態度を反省したほうがいいと思うよ。)

ということで、本日は午後から発表会。聴講生のひとりとして、見届けてから感想を書きたいと思います。

[私は、昔からオペラを観てちょっといいシーンがあるとすぐに泣いてしまうほうで、今回のトラヴィアータは稽古の間から弱点を突かれまくりなのですが、昨日のゲネプロで、技術スタッフや歌手を終始冷静に見つめて、修正点をチェックしていたコンヴィチュニーを見習って、今日は、どこまで泣かずにこらえることができるか、そこを鑑賞の課題にしたいと思っています。

びわ湖ホールのリハーサル室で何が起きるか、耳だけでなく、ちゃんと目に焼き付けておきたい。

ちなみに、コンヴィチュニーの「ダメだし」(←誤用ではない意味)は、頭で覚えていたのではなく、横に助手のチーフとして付いていた演出受講生の木川田さんに、舞台が進むあいだ、その都度、メモするように指示して、それを元にやってましたね。コンヴィチュニーの仕事の進め方は、基本的にはとても合理的で、「神業」的な何かに頼ってはいないと思います。目の前にある舞台の「絵」が、ちょっと違う、という風に思って修正する感じは、画家や映画監督に似ていると思います。音楽家の家庭に生まれた「耳の人」だけれど、仕事として「目の人」に徹するべく自分をトレーニングし、律しているように見えます。いい音楽を聴いても「目をつぶらない」のは、好みとか性癖とかじゃなく、一種の倫理として、そうしているんじゃないでしょうか。「たとえ音楽が鳴り響いている間であっても目を見開き続けなければならない」、それが、「極端な時代」(ホブズボウム)としての20世紀を生きてきた人間のつとめである、くらいに思っているんじゃないだろうか。音楽を誰よりも愛する人が敢えてそうしている、ってところがコンヴィチュニーの逆説であり、「時代の子」なんだろうと思います。]