分解と結合

あとは今日の午後のゲネプロと明日の本番を残すのみですが、今回のトラヴィアータの10日間は、思い返せば、コンヴィチュニーのそのまま全部文字起こしして記録に残したいような立派なスピーチから始まったんですよね。

簡単な説明のあと、いきなり聴講生を含めた全員を舞台にあげて稽古をスタートした「魔笛」とは好対照。

で、今振り返ると、今回のプロダクションのメイン・テーマは何か、それぞれの登場人物はどういう役か、アンニーナやグランヴィル、ジョルジュやメッセンジャーまで、ひとりずつ最初にちゃんと説明があったのでした。(そういう「小さな役」まで全部詳しく説明しておきながら、アルフレードについてだけは、わざと最後まで何も言わずにジラしたりして、このスピーチ自体が、とても上手に「演出」されていた(笑)。)

ひととおり稽古が終わってみると、腑に落ちるんですね。なるほど、フローラと男爵、ガストンとグランヴィルと子爵、ジェルモンとその娘、アンニーナとジョルジュ、それぞれ別の人生を生きているし、そのことがはっきりわかるシーンをちゃんと用意してあるプロダクションであることだなあ、と思う。

既に3つの劇場で上演して練り上げたプロダクションだから、ということもあると思いますが、舞台を作る手順として、今回はこういう風に、最初にちゃんと設計図を示して、ちょうど、大がかりな外科手術をやるときに、事前に全員で集まってカンファレンスをやるような感じだったのかもしれない、と思います。

稽古は、最初に大胆にメスを入れてお腹を開くみたいに、コーラスを舞台に上げて、全体を2つのグループにわけます、ってところからはじまって、胃と膵臓と肝臓、それぞれを別のチームが同時並行で処置するみたいに、舞台上のあっちこっちで別のことが起きて、それぞれの臓器をつないで血液が流れ続けているかのように、アルフレードがあっちへ動き、こっちへ動いて、ガストンがその狂言回しになる。

そうして、医者が最初の場面から登場する演出だったのですが、ヴィオレッタを診察する手順は、結構複雑に専門的なので、事前に裏で助手さんから指示を受けていたりする。

乾杯の歌のあと、バンダのダンス音楽でコーラスが退場するまでのところに1日半かけてましたが、ヴィオレッタの死に至る物語の稽古は、10数時間に及ぶ大手術からスタートしたわけですね。10日間のアカデミーは、大きな手術とその予後の成り行きみたいに段取りされている。

(医者だって人間なのだから、大手術のあとは息抜きに乱痴気パーティに行くことだってありますよ。そうじゃないと保たない(笑)。あんまり追い詰めると自殺しちゃうよ(←今、その話題はダメです。))

そうして今回は全幕続けてノンストップで上演する計画なので、観ているほうも長い持続を体験できるようになっている。

(「ボエーム」はこの形式でしたが、「魔笛」は1幕、2幕を分けてましたね。作品ごとの作り方、見せ方の違いは、ちゃんと考えてやっているとわかる。稽古のスピード、進み方の違いは、必ずしも「コンヴィチュニー老いたり」という生理的なものに還元して済む話ではなさそうです。歳を取ったことでわかること、やれること、というのは、もちろんあると思いますが。)

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で、一昨日から各場面をもう一度やり直しているわけですけれど、今度は、もう本番を見据えてのことですし、ひとつのシーンから次のシーンへのつながり具合を全員、各部門が確認できるように配慮しながら進んでいて、分解した臓器をひとつずつ、もう一度、身体に戻す作業という感じなんですよね。ちゃんとつながってるかな、体内に針や糸が残ってたりするところはないかな、と確かめながら縫合していく感じ。

リハーサル室が本番の舞台なので、次の出番の人がどこで準備するか、歌い終わった人がどうやって席に戻るか、というのも芝居の一部になっちゃいますしね。

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そして、トラヴィアータを全幕アタッカで上演すると、ひとつ面白いことが起きる。2幕はヴィオレッタの隠れ家の場もフローラの夜会も幕があくといきなりドラマがスタートして、すぐ台詞(歌)があるので、その前から続けることによって「時と場の転換」、断点・飛躍の存在が強調されますが、3幕は長い前奏曲があって、しかも音楽的には1幕の前奏に対する再現・回想になっている。これが、前から続けると、前奏ではなく間奏になる。

前奏と間奏は何が違うのか、なんてことは、普通はあまり原理的に考えないですけど、やっぱり、別の機能・役割があるはずですよね。

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あと、トラヴィアータを休憩1回でやるときは、(ちょっと乱暴な上演慣習だとは思いますけど)2幕を真ん中で切って、フローラの夜会と3幕をつなげちゃうことも可能ですよね。この作品の幕の構成は、どうしてこうなっているのか、ちょっとわかりにくいところがある。

あるいは、ノーカットでやるとしたら、バレエもあるから、全4幕にしたほうがグランド・オペラっぽくなるんじゃないか、と思えたりもしますよね。

トラヴィアータはボエームと似たところがある作品だけれども、ボエームのほうにはこういう幕構成の居心地の悪さはなく、きれいに4幕で構成されてます。トラヴィアータのノン・ストップ上演は、ボエームの場合とも、また違う。

(ボエームの場合は、1幕=出会い、2幕=恋の真っ最中、3幕=別れ話、4幕=再会と死、ということで、トラヴィアータを4つの情景に分けて考えた場合と展開がよく似てますし、ちょうどトラヴィアータの終幕の前奏が第1幕の前奏と対応しているように、ボエームの4幕は、幕全体が第1幕の再現(の挫折、すなわち死)という風な構成ですよね。たぶん、プッチーニのチームがトラヴィアータを意識して、一種の下敷きにしてボエームを構成したんだと思う。で、元ネタよりも、そのパクリのほうが合理的・効率的に整理されている、という、世にありがちな現象が起きているんだと思います。そうして、パクリであるボエームの印象が元ネタであるトラヴィアータのとらえ方に遡って影響を与えてしまったりするわけですね。そうするとこれがラヴ・ロマンスに見えてしまう。コンヴィチュニーは、今回、そういう風に手垢のついたトラヴィアータ像を見直したい、というのがあるようです。)

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で、前奏と間奏は何が違うか、ですけれど、

トラヴィアータの3幕の前奏は、既に一度聴いたメロディーをもう一回かなり長く演奏しますから、たいていの演出では、前奏の間に幕を開けてしまって、色々と視覚的な「準備」をはじめちゃいますよね。ヴィオレッタだけじゃなくアンニーナも舞台に出てきて、ベッドの周りのあれこれの世話をはじめている、とか、いかにもありがち。ヴィオレッタが落ちぶれたホームレスになって、アンニーナに抱えられながら路上にへたり込む、という演出を観たこともある。いずれにせよ、この前奏は、はっきりその前とは切れていて、何かここでやれることがあるとしたら、次を準備することぐらいだろう、というのが相場だと思います。

ところが、コンヴィチュニーがフローラの夜会で大騒ぎして、舞台上をめちゃくちゃにしてしまうのは、先のエントリーで書いたように、そのための前振り・準備がちゃんとしてあるだけでなく、そのあとの、次の幕の「前奏」にも波及する。音楽は次への前奏であり、作品冒頭の再現・回想なのだけれど、舞台の上では、カタストローフの「後始末」が緩慢に進む。つまり、ノンストップ上演によって「前奏」が「間奏」に役割を変えただけじゃなく、このオーケストラ音楽は、音楽としては次への準備であり、舞台としては前の後始末であるというように、後奏と前奏の二重の役目を与えられているんですよね。

要するに、この音楽は、間奏であると同時に後奏でもあり、なおかつ前奏でもある、ってなことになってしまっている。

これもまた、作品の組み替えが知的な作業としてなされている証左かな、と思います。

(稽古の途中でコンヴィチュニーは、前奏がそのあとのアンニーナとのやりとりから手紙の場面へつながっていて、ここが一種の figurierte Choral (←日本語の定訳は何なんでしたっけ)になっていると指摘していた。彼は、自分の演出が、よりによって次の場面との音楽上のつながりが特別に密接である箇所を前の場面の「続き」にしてしまう異化的な手法だと間違いなく自覚しているはずです。)

オペラにおける長い持続というと、「無限旋律」などという、ワーグナー自身に由来するのか素性の怪しいバズワードが出てきたりするわけですけれど、現象レヴェルで何かが途切れることなくつながっている(たとえばトリスタンとイゾルデの一夜の逢い引きというたったひとつの出来事の推移だけで長大な幕を構成する、とか)というのとは違うやり方で、何らかの持続・大きなまとまりを構成することができるはずだし、じゃあ具体的にどうやるか、という話ですね。

ひとつの部分に形式・構成上の複数の役割を与える(前奏が同時に間奏であり後奏でもある、等々)というのは、今さら私が言うのもナンですが、いかにも近代西洋芸術が好みそうな手法ですよね。実はワーグナーのいう「推移のアート」だって、技術的にはこれに近い手法である、ということが言えたりするんじゃないでしょうか。少なくとも、ワーグナーやシュトラウスの楽劇研究は、たいてい、そんな風にスコアを分析しますよね。

先日の公開討論会で、コンヴィチュニーは、何の話をしているときだったか、「オペラは複雑で、なおかつ、複雑な話はバカとはできない」と、いかにもドイツ人っぽく冷静に恐いことを言ってましたが(こういう腹の据わり方が「ブラジル相手に容赦なく7点」の真の原動力なのかも?)、大きなものを組み立てるために必要な技術は、実際にそれが稼働する様子をみると、「ドイツ的構築性」なんぞという、わかったようなわからないような批評用語でイメージされる精神論とは随分感じが違ったりするわけですね。

(そしてなおかつ、話はここで終わらなくて、

今回の演出では、アルフレードがヴィオレッタの腕から注射の針を引き抜く象徴的なシーンがありますけれど、

機械のように正確に稼働する社会をぶっちぎるアホ、というのが世の中にはおって、そういう奴が「宇宙愛」みたいな中二病を発症する設定になっているわけです。「君に必要なのは、医者の治療ではなく愛だ! 世界の中心で二人で愛を叫ぼうぜ!!」みたいな(笑)。

男は愛すべき愚者として生きるしかない、というのは、いかにもコンヴィチュニー好みの設定で、作品を自分の世界観にぐいっと引っ張り込む特徴的なシーンですけれど、でも、これはヴェルディがダメだからオレが正しい姿に作品を作り直す、というゴーマニズムではないと思うんですよ。

むしろ、「ヴェルディは、実際に会ってみると思った以上に話のわかる奴じゃないか」と大いに気に入っているんだと思う。職場で行儀良く話すだけじゃもったいないから、一緒に飲もうぜ、と、ぐいと肩を抱き、行きつけの飲み屋へ引っ張っていく。「コンヴィチュニー印」を作品に刻印するのは、そんな感じの親愛表現だろうと思うんですよね。

ストラヴィンスキーとかホロヴィッツとか、このクラスの圧倒的な実力とエゴを備えたアーチストは、しばしば、こういう領海侵犯をするじゃないですか。古典芸術における「クリエイティヴ」はそういう形で発現するしかないと思っているのかもしれない。コンヴィチュニーは、正しく「二世アーチスト」であって、随分と古風な人なんですよ。)