演劇と手を組みたがらないオペラの偉い人の系譜

前の2つの記事は具体的に書こうとして長くなりましたが、まとめると、

  • (1) コンヴィチュニーというオペラ演出家が面白いということが東京で知られるようになって、なかでも東京二期会は彼に直接アプローチして、公演・交流の実績が徐々に積み重なっていった。(これが、いわば「コンヴィチュニーinジャパン」現象第1期、およそ2008、2009年頃までと見ればいいでしょうか。)
  • (2) そのうち、どういう経緯なのかは知らないけれどもコンヴィチュニーが日本にオペラ演出家養成講座を作れそうだと考えて具体的に動き出す。当初の受け皿は昭和音大で、東京藝大へ話を持っていったのだけれども1回限りで頓挫して、次にびわ湖ホールに話が来て、昭和音大とびわ湖ホールの共催事業が動き出す。(これが2009〜2011年、いわば「コンヴィチュニーinジャパン」第2期。)
  • (3) びわ湖ホールは、単独主催でコンヴィチュニーのオペラ・アカデミーをやるところまで踏み込んで、それは思えば、芸術監督・沼尻竜典のもとで、ドイツ語圏の劇場や演出家と提携した公演を重ねて、遂に自身がドイツの劇場でポストを得たりした展開とも歩調を合わせているかのように、外からは見えなくもなかったのだけれども、結局、オペラ・アカデミーは今年で終了ということになった。(これが2012〜2014年、いわば「コンヴィチュニーinジャパン」第3期。)

私の感想としては、

  • (a) もとはといえば、自発的というより東京から舞い込んできた話なんやから、まあ、このあたりが落としどころなんとちゃうかなあ。

ということと、もうひとつ、

  • (b) 日本のオペラ界は、演出家が主導権を握ろうとすると、必ずそれをつぶすような動きが出てきて、5年か10年で収束するなあ。武智鉄二のとき(結局、本人の実家が破産して関西のオペラ活動から撤退)や、三谷礼二のとき(惜しまれつつ50代の働き盛りに死去)と似てますなあ。

ということを思う。

新バイロイト様式とか、そういうのを外国でやってる分には面白がるんだけど、日本に入ってきて、我がことになると、急に強いアレルギー反応が起きるみたい。

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その種のアレルギー反応の出所は割合はっきりしていて、

ひとつは、ワグネリズムの簡易普及版みたいな感じの「作曲家独裁」と「テクスト至上主義」。(ドイツのご本尊がそろそろワーグナーとそういう形でつきあうのは止めようという感じになっても、相変わらず頑固なところは、インドの原始仏教や中国の大乗仏教が下火になったあとまで日本にそれが残ったのと似ているかもしれません。日本は、外国から渡来した「文物」を何百年も大切に護り続ける辺境の島国ですな(笑)。)

もうひとつは、オペラとはベルカントだ、という「歌唱芸術至上主義」。(こっちは、生きた人間が伝承しないことには続かないので、本場イタリアの動向をその都度、かなり熱心に追いかけて技をアップデートしていくのだけれど、ともすれば、歌う身体が劇場という環境やテクストから切り離されて、ほとんどアスリートの鍛錬・修行・トレーニングに近いものになっていく傾向が常にある。だから、オリンピック選手が競技の前はイヤホンで好きな音楽を聴いて、周囲に左右されない自分のペースを維持するように、外部からの介入を嫌いがち。)

あまりにもベタで、何のおもしろみもない観察ですけれど、どうやら、今回の「コンヴィチュニーinジャパン」も、いつものように(笑)、こっちの派閥の「勝ち」で終わりそうな情勢に見えますね。

コンちゃんの舞台は、トータルにどういう力をもっていたとしても、「ここが楽譜と違う」というところで次々減点されて不合格になり、「美しい声」が聴きたくてアリアで目をつぶっちゃう人には、効き目がないわけです。

[ここで私が、具体的な個人を想定して書いているのは明らかですが、それはわかる人がわかればそれでよろしい。あの人たちは、個人の主義主張でやってるわけではなく、市場や顧客を背負った、いわば「アイコン」に過ぎないので、こっちも、それに賛同できないという旗だけ立てて、あとはとりあえず、ほっとくのが得策。あれは、人間として生きてるとは思えないもん。業界政治に深入りする気はありません。]

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さて、しかしそれでも、一連の取り組みは、過激派の無謀な扇動みたいなものとして無駄に終わった、ということではないと思います。(むしろ、アンチの論陣を張ろうとした人たちのほうが、何を慌てたのか知らんけれども、あっちこっちで杜撰なところを露呈してましたしね。)

ひとつは、びわ湖ホール主催になって、「コンヴィチュニー オペラ・アカデミー in びわ湖」という名称になって以後の3回で、じわじわとではあるけれど、確実に聴講生が増えて、出席率も向上しつつあったように見えたこと。

筋の通った取り組みは、数のうえでは「バカ」に負けるのが常道ではありますが、続けていれば、決してゼロになって消滅することはない。文化や教養というのは、古来、そんな風にして細々と存続してきた、というのが、大げさに言えば、人類の歴史の実際なんだと思います。

そしてもうひとつは、ほんのちょっとだけ話をして、あとは様子を見ていただけではありますが、演出受講生の皆さんが、「台本・楽譜への忠誠vs登場人物のリアリティ」とか、「歌が先か、ドラマが先か」とか、おそらくドイツの劇場を取り巻く文化・教養の現状のなかで鍛え上げられたのだと思われるコンヴィチュニーの論争的なレトリック(独文出身のコアなコンヴィチュニー・ファンの人たちはどうしてもここに注目してしまいがちみたいだけれど)を丸暗記したエピゴーネンになるわけではなく、「どうやって歌手の協力を取り付けるか」、歌手の人たちはどこがどういう風に大変なのか分かった上で、いつ、どこで、どうやって舞台の進行に介入するか、というような視点から、地に足の付いた受け止め方をしていたように見えたことです。

(発表会開演前に、ロビーで演出受講生さんたちが立ち話しているのを小耳にはさんだのですが、「以前、演劇のワークショップで“大切なものを失うこと”がテーマになったことがあって……」というような話をしていたようで、トラヴィアータのこのプロダクションが幕を開けようとするタイミングにふさわしすぎる光景じゃないか、と、私は横を通り過ぎながら、秘かに感動しておりました。こんな感じにみんなが気持ちを高めて作った上演をみて、それでも私は3回しか泣かずに耐えたのだから、そこを誉めて欲しいくらいだ(笑)。)

まあ、いつの時代でも、優秀でまっすぐ自分の道を歩んでいる若手さんというのは、そういうものですよね。

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そして最後にもう一度、徐々に金太郎飴のようなワン・パターン状態になりつつあるかもしれない私の持論を申し述べさせていただくとすれば、

そもそものはじめから、関西の興行界は、「音楽が演劇と手を結ぶべきか否か」みたいなガキっぽい党派的な議論を相手にするような野蛮で未成熟な土地柄ではないと思っております。

クプファーで演出の読みの魅力、ワーグナー解釈の面白さに開眼した、とか、それを踏まえてコンヴィチュニーはもっと凄い、今までのオペラは何だったのか、これだよ、これ! みたいに言うこと自体がガキっぽい。

「そら、演出家がとことんやれば、そういうことになるやろなあ、吃驚して、ついていかれへん人のほうがどうしても多くなるやろうけど」

というだけのことじゃないですか。

若者は、この種の過激さに飛びついて、そこから何かを学ぶもの。オトナは、自分の体面のためにそれをつぶそうとかするんじゃなく、よほどのことがなければ、好きなようにやらせとけばええのよ。

関西のオペラの人たちは、武智鉄二とその継承者みたいな人たちがいて、朝比奈隆がこれを庇護したおかげで、多少の演出では驚かないような「免疫」がかなり早い段階でできていて、それは代々伝わっていると思います。びわ湖のコンヴィチュニーのアカデミーに「協力」した大阪音大の先生や歌手の人たちも、そこまで驚きはせずに、ああ、そういうのがやりたいのね、って感じで、できる範囲のお手伝いをした、それだけのことだと思います。

(たとえば「ボエーム」のときは、茨木で「赤い陣羽織」をやるために頑張ってくれた子も参加してましたし、今回のトラヴィアータでコンヴィチュニーからも、稽古や本番を見た誰からも演技力を絶賛された黙役の子は、たしか大阪音大出身でしょう。あそこのオペラ科の底力は侮れないですよ。)

あるいは、どこのどういうプロダクションに呼ばれても上手に舞台をまとめる岩田達宗さんは、若い頃、三谷礼二に私淑していたそうですし、関西歌劇団で仕事をしていたし、彼が所属しているのがどういう会社か、というのを考えると、ワグネリズムだ、ベルカントだ、みたいな空中戦を偉い人たちが闘っている間に、着々と演劇とオペラの接点を作ってきた地下水脈の一番こゆいところから出てきたような人じゃないですか。

若いときは、どこにも味方がいなくて、暗中模索で道なき道をひとりで切り開いてるような気持ちになることが多いものかもしれないし、世の中には、わけわからんこと大声で叫ぶバカがたくさんいますが、ここは未開の地じゃないし、むしろ、順当に、時代の歯車がひとつ回ったんじゃないかなあという気がします。