現場視察

[追記あり]

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会場の休憩時間には、受講生の若い歌手たちの間から「東条さんって、すっげー有名な評論家なんだぜ」みたいなささやき声が漏れていたわけですが(笑)、既に今回で終了することが発表されている講座の真ん中の2日間、まだドラマの結末までたどり着いていない段階でのこのご発言は、やや暴発・フライングではないかと思う。

そんなにいきり立ってお怒りにならなくても、「読み替え」とかレジーテアターとかの功罪等々は、そろそろ冷静に見えて来つつある段階じゃないかと思うんですけど……。棒立ちのコンチェルタンテでなくオペラをドラマとして活性化するのが本筋で、「読み替え」とか異化効果とかは、あくまで手段のひとつであろう、というあたりに話が決着しそうな雰囲気を最近はしばしば感じます。

本気で総括するんだったら、もうちょっと成り行きを見極めておかないと、話が中途半端に混乱して、せっかくの議論が不毛なものになるのではないか。相手がまだ話をしている途中に強引に割って入るタイミングになってしまっている気がします。

まあ、「偉い先生」がしばしば大人げないことをするものである、というのは、歌やオペラの世界でここまでやってきた若い人たちにとって、さほど珍しい光景ではないだろうと思いますが(笑)。

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東条さんもその場でお聞きになったかと思いますが、この日の稽古では、冒頭でコンヴィチュニーが、「昨夜夢を見た」と開口一番、言ってたじゃないですか。「このリハーサル室にいつものように来たら、誰もいない夢でした」って(笑)。

前日までの稽古は結構ナーバスな感じになっていて、それは現実的な理由もあり、扱っている作品・プロジェクトが若い歌手たちでやるにはかなりハードで荷が重いということもあり、というようなことだったろうと思うんですよ。

で、一般にオーケストラでもオペラでも、稽古を部外者に公開するのを嫌うのは、現場が常に順調でハッピーで快適であるはずがないからですよね。面白おかしく、弱みを突いて攻撃しようと思ったら、まだ準備の途中なんだから、ネタの宝庫ですよ。

そこを突くのは、普通に考えると、あまりフェアなやり方ではないと私は思います。

昨日、今日と、このちょっと不安定でピリピリした空気をどういう風に乗り切るのかなあ、と思いながらみていて、私は改めて色々と勉強になりました。

たぶん、参加の目的とか、みているポイントが違うんでしょうね。人はそれぞれ。

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ひとつだけ、具体的なことを書くとしたら、

私は、舞台・劇場の大きな特徴のひとつは、誰も全能の独裁者にはなれないことだと思っています。

オペラといえども、作曲家が書いてきた楽譜をそのまま全部やればそれでいい公演になるか、というと、そんなもんじゃない。

慣習に抗って全曲ノーカットでやることに意味がある場合もあるし、適宜カットしたほうがいい公演になる場合もある。作曲家のスコアは、不可侵の聖典ではない、ということです。

私は、最近、国内でも国外でも、そしてオペラだけじゃなく歌舞伎や文楽でも「全曲ノーカット」とか「通し狂言」が売り文句になっている興行がしばしばあるのは、実にガキっぽく、つまらんことだと思っています。「全部まるごと」であることがそんなに嬉しいか?

私は、そういうチンケな全能感を挫くこともまた、劇場の「教育機能」のひとつだと思いますし、今回、コンヴィチュニーが明らかに「成長・成熟」をテーマに掲げて取り組んでいるプロダクションが、高名な音楽評論家の「成熟」の糧にならずに終わったらしいことを残念に思います。

(今回のアカデミーには「高名な劇作家・演出家さん」や、「高名な作曲家さん」(夏の休暇に一個人として見学していらっしゃるだけなので名前は出しません、稽古の途中である若手さんをちょっとだけ聴いて名指しで論評するとか、そういうのはいかがなものか、等々の倫理観がいちおう私にはありますので(笑)、あ、でも、「有名な評論の先生」に名前を認知してもらえたら、それだけでラッキーみたいのはあるのかな……、だったら私もミーハーに、○○さんの隣に座って天にも昇る思い、と書けばいいのかしら、夏の休暇のイベントはこのあたりのさじ加減が難しい)も顔を見せていらっしゃいましたが、この方々は、この点をどのようにお考えなのか、とても興味があります。)

とはいえもちろん、別に私がそれを残念に思うことに何ほどの意味があるかというと、そんな一個人の感慨には、何の意味も重みもありはしませんが(笑)。

そしてああいう文章は、「あの先生が評価委員をしている助成」に申請するときの傾向と対策を各方面が考えるときの役に立つ、はるかに「有益な情報」なのでしょうけれど……。

[付記]

あと、まさかとは思いますが、演出のなかで「ここは神聖な儀式みたいにやってみよう」という提案があったのをピックアップして、コイツらは宗教教団のようなことをやってケシカラン、とフレームアップしよう、とか、そういう意図はないですよね。

東条さんはまだいらっしゃってませんでしたが、初日の最初の説明で、コンヴィチュニーは「これはラブ・ストーリーじゃない、ひとりの人間があとわずかで死ぬ話だ」とはっきり言って、その大枠でプロジェクトが進んでいるんですよね。

そしてそのテーマに関連して、「死はただ悲しいと描けば、それでいいのだろうか?」という問いかけがある。私は、この問いかけがふざけている、とか、なんでも天邪鬼に常識の反対をやろうとしている行為である、という風には思えません。

(私は徹夜明けのグランヴィルのパーティーの三角帽をみると、「夫婦善哉」の森繁久彌がこっそり朝帰りする姿を連想します。あるいは「こうもり」の終幕の朝の牢獄とか。場から浮いてしまわないさじ加減で出てくるのは、めちゃくちゃ難しいだろうなあ、びわ湖ホール声楽アンサンブルの新人さん、いきなり凄い課題をもらっちゃったなあ、とは思いますが。

それに、考えてみればグランヴィルはヴィオレッタにあと何ヶ月の命、と診断・宣告した張本人だと思われ、この物語はグランヴィルが最初のきっかけを与えて動き出したとみることだってできるかもしれない。「自分の命を託さなければならない担当のお医者さんが、どうも信用ならない感じなんだよねえ」という不安は、人が病院で死ぬ時代であるところの現代では、めちゃめちゃ切実じゃないですか。うちの父親も、入院してから病院の人たちをどうにも信用できなかったようで、相当わがままを言って困らせたらしい。そんな「病人の側からみた医者の姿」があの形象になったと考えてはどうか。)

そして、死と向き合うことが宗教的なものを切実に捉え直す機会になり得る、というのも、比較的納得しやすい問題設定だと思います。

最初の前提に戻って、「トラヴィアータをそういう話として制作するのは納得できない」と主張する立場はあり得ると思いますけれど、とりあえず今回はそういうテーマを設定して動き出しているわけで、具体的なミッションに向かって動いているチームを「信者の集いかよ」みたいに茶化すのは、テーマがテーマであるだけに、むしろ、不謹慎じゃないかなあ、という気がします。

それに、ヴィオレッタが「死」というテーマを抱えた存在だと設定すると、もう一方のアルフレードが、しばしば「神秘的な宇宙愛」(永遠不滅にして全能の含意がある)を(やや妄想的に、書物から学んだ知識として)言い募る男なわけですから、ドラマにしっかりした柱を立てることになる。大きなテーマを設定したドラマを具体的にどう仕上げていくか、その全過程を実習することは、若い人たちにとって、大変貴重な経験だと思いますし、「愛と死」は19世紀のオペラにしばしばみられるテーマですから汎用性もある。最終回にふさわしい題材と言ってもいいんじゃないでしょうか。

コンヴィチュニーへの個人的な好き嫌い、恨み辛みは脇において、若い人が本格的に取り組んでおくことは、大変有意義だと私には思えます。

現役アーチストが本気で自分の手の内を(弱点も含めて)さらしてくれるマスターコースなんて、そうそう、あるもんじゃない。