深いところへ入る、ということ

午前中に2幕の最後まで行って、すごいものを見てしまった。

コンヴィチュニーは長髪を後ろへ束ねて、向こう気の強い兄ちゃんがそのまま年取ったような風体だし、見た瞬間に笑っちゃうような飛び道具を色々使うイメージがあるじゃないですか。アイーダの象がちっちゃいぬいぐるみだったり、とか。

ところが今回は、ドラマを通して人が成熟する、ということを何度も何度も繰り返し言うんですよね。

で、2幕の最後は、ほぼ宗教劇になってしまった。

「サロメ」では、(観てないですが本になっているドキュメンテーションを読む限りでは)最後にヒロインが浄化されることになっていて、「マクベス」には、マシンガン打ちまくったあとの廃墟から人々が立ち上がって再生する3.11以後な感じのコーラスがありましたが、両方足し合わせたようなシーンという言い方ができるのかもしれないと思いました。

真ん中でアルフレードに最後のお別れを言う聖女のようなヴィオレッタがいて、その周りは、「マクベス」の客電が灯いた合唱のあの感じ。逆に、合唱の作り方をみながら、「マクベス」のあのシーンがどうやってあんな風に特別なものになったのか、その理由がわかった気がしました。世界が壊れて、ぽっかり穴が空いたところに見える真実に呆然とするところからはじまって、天に向かって叫べ、神はいないかもしれないけれど、それでも叫べ、とか、コンヴィチュニーは言うんですね。ほとんど演出というより合唱指導ですけど、こういうときにこの演出家はためらいなく「音楽の側」に入ってくる。(「オペラで台本と音楽に亀裂が走っているときに、私は断然、音楽の側につく」とか、めちゃめちゃかっこいいことを言ったりする。普段は、屁理屈じゃん、と思うくらい細かく台詞を盾に色んなことをやるくせに(笑)。まあ、普段がそうだからこそ、このアジテーションが効くわけで、いいんですけど、この振り幅の大きいオッサンとやっていくのは、歌手やスタッフにしてみれば、よほど気力・体力が充実してないといかんのでしょうなあ。こうやって一番おいしいとこは自分がもってっちゃうしねえ(笑)。)

で、しかし、それだけかっちょよく大技を決めておきながら、そこで全部出し切って、見得を切って拍手喝采で終わっちゃうのではなくて、そこからさらに、我に返ってこのシーンをちゃんとまとめて、さらに次の、本筋であるところのヴィオレッタがどう死ぬか、という話へ戻す。

下半身系な比喩を使いますけれども、ピュッと出して気持ち良くなってそれで終わり、というんじゃなく、ちゃんと後始末もしなきゃいけないし(笑)、ここでぐっと下腹に力を入れて、痙攣的なネタや脊髄反射の連鎖で終わるのではない深い呼吸ができる体勢を整えて、先へ進んで、ひとつ先へ、そしてさらにその先へと進んでいく。そうやって愛と死の行く末を見つめる。ワーグナーだけじゃなくヴェルディだってそういうドラマなんだよ、ということですね。

コンヴィチュニーがこういう風にじっくり腰を据えた舞台作りをするんだ、というのは、かなり予想外でもあったし、ひょっとすると、最近になってそういう傾向を強めてきたのかなあ、という気がしました。

そして3幕ですが、ヒトというのは、病死の場合はとりわけそうだと思いますが、「もう長くない、いよいよ、覚悟しないといけない」となってから色々な段階がある。ヒトはなかなか死なないし、リアルな死と向き合うのは、本当に大変なことだと改めて思います。(確かに、父親が入院してから死ぬまでは、期間にすると半年ちょっとだったけど、色々あったもんなあ……。)

正直に言うと、「椿姫」は第1幕が一番好きで、2幕のパパの登場は、自分が親の立場になったことはないのでイマイチ他人事で共感できなくて、3幕は、少々物語に飽きて、結末を確認するだけのために観ていることが多かったのですが(そして、やや退屈しているときに「回想動機」の技法を使われると、なんともシツコくあざといメロドラマに思えてしまうわけですが)、コンヴィチュニーのやり方だと、ドラマが進むにつれて、どんどん濃密になっていきますね。

オタクそのものであるアルフレードに笑っちゃったり、ジェルモンが娘同伴で乗り込んで来たよ、と吃驚したのが遠い昔のことのような気がします。