資料:なぜ1980年代の吹奏楽で日本の現代オーケストラ作品がさかんに演奏されたのか?

[追記あり]

こんな話をはじめると、また、「他人をやりこめる困った奴だ」と言い出す人が出てくるかもしれないが、

前置きが長くなったが、今日聴いて後悔したのは、三善晃作品のある演奏だ。それは、you tubeで「三善晃」で検索し、その中からぱっと目に留まったものを選んだ結果だったのだが、まあ、酷い演奏だったのである。編曲が酷いし、演奏も全く音楽的ではない。聴いてから、「ああ、やはり……」ということになった次第。

交響惨章 ( イラストレーション ) - Le plaisir de la musique 音楽の歓び - Yahoo!ブログ

上のリンク先で今年の初めに大久保賢氏が書いた件に関連して、彼がどの団体のいつの演奏を聞いたのか明記していないので、はっきりしたことはいえないが、もしかすると遅ればせに批判された当事者かもしれない秋田南高校の先生(文中にあるように同校は1978年と1980年に三善晃作品をコンクールで演奏した)がバンドジャーナル1981年5月号の特集「バンド・ミュージック・レパートリー・スペシャル」に寄稿した文章が見つかったので、引用したい。

現在とは状況が変わっているところもあるし、今なお考えさせられる指摘もあるように思いますが、ここで私自身の意見を書くのは控えたい。それぞれで考えていただきたい。私も考えます。簡単にシロクロがつく話ではないと思うからです。

今、なぜ邦人作品なのか 高橋紘一

[……]

コンクールがあり、それに参加する。そのコンクールを、もし「教育」という立場から考えるとしたら、そこで演奏する曲はよい教材でなければならないと思います。そして、コンクールの結果はあくまでも単なる結果であって、われわれ指導者と部員にとってもっとも大切なことは、そのプロセスであると思います。

[……]

さて本校の場合、過去三年間邦人の現代オーケストラ作品を演奏してきましたが、これらの作品は現在オーケストラで演奏されることがまれであると聞いています。しかし、演奏させていただいた立場から言えば、非常に深い音楽的内容と感動性をもったすばらしい作品であったと思います。この選曲については、一つの方向性をもつならば、それを数年続けて演奏したいという気持ちと、選曲にも明確な主義主張をもちたいという考えから推し進めてきたことでした。これらの曲の演奏を通じて感じたことは、わたくしを含めて部員の感覚としても十分共感できるものであり、音楽的にも大きな喜びを得られたことでした。現代音楽と言っても、われわれ指導者よりも、若い世代の感覚にとっては(感覚が開発されているかどうかは別問題であるが)何でもなく受け入れることのできるもののようです。この三年間の経験は、わたしにも部員にも新しい経験でしたが、いろいろな音楽経験を通して、できるだけ広い視野から音楽を見つめていくことが教育としては大切なことのように思います。

ただこれら邦人の作品の演奏については、各方面からいろいろな批判を受けました。とくに、三善先生の「管弦楽のための協奏曲」については手厳しいものでした。それはサーカス的芸当であり、生徒を金賞を取る道具に使ってはならない、というある審査の先生の評でしたが、それは本校の演奏が稚拙であって音楽の表現領域まで達しなかったのはしかたがないとしても、前に述べたように、三ヶ月間のコンクールの練習過程で行った部員のさまざまな努力と経験、そして彼らなりに感じた音楽をつくる努力があったことを少々考えてほしいと思いました。

たしかに三曲の邦人作品は、ある程度高度なテクニックが要求されました。しかし部員は、何も音楽を感じないでただ機械同様のテクニックに走ったわけではなく、常に音楽の表現手段としてのテクニックのあり方を考え、教えたつもりです。三年目の昨年、三善先生の「交響三章」の演奏については、本校の音空間のひとつのあり方に多くの人々が共感してくださいました。このことは、演奏する立場として非常に勇気づけられることであり、本校の今までの活動の総決算でもありました。

[……]

(『バンド・ジャーナル』1981年5月号、69頁)

*参考までに、ここで言及されている1980年の第28回全日本吹奏楽コンクールについて、バンドジャーナル1981年1月号に村井祐児が寄せた文章「花咲き競う『高校の部』」(72頁)も引用しておきます。秋田南高校の演奏への言及があります。そしてそのあとに出てくるように、この年の吹奏楽コンクールは、淀川工業が「大阪俗謡による幻想曲」に初めて挑戦して、全国大会で金賞を得た回で、高校の部の充実ぶりに注目が集まったことが誌面の他の記事からもうかがえます。以下の引用文は、やや熱に浮かされたような印象を受けますが、大人たちに何らかの衝撃を与えた年ではあったのでしょう。

みんな、マジメに取り組んでいたのです。

代表二十五校の演奏は、もはやコンクールという形式をはるかに上まわって、入賞者たちの「披露演奏」のごとくにひとつのセレモニー的な格調を示していました。そして、かりにドイツ、アメリカ、フランスのグループを招待しても、これほどの色の違いを期待できないであろうと思わされるほどに多彩であり、またレヴェル面でも高度な音の世界であった。

とくに東北代表・秋田南高(指揮=高橋紘一)『交響三章』(三善晃曲)において示された音への真摯な態度は、各セクションの音質、それにともなう透明なポリフォニックな音のつらなり、そして充実した音、および流れを斬新なカットで断ち切る「間」をたくみに配置した精神的な宇宙の中に、われわれを誘い込んだ。[……]その後さらに大人たちを震わせることとなったR・シュトラウスを代表する西洋の艶といったふうなものの日本版を、大阪府立淀川工業高(指揮=丸谷明夫)は大栗裕の『大阪俗謡による幻想曲』をもって、はらりと帯を解いて見せた[この一文、日本語として混乱しているが原文ママ]。それは、あたかも西洋音楽における色や艶を表現することに苦労しているわれわれに、身近な素材で十分手応えのある感触を示せることを暗示し、またそれが、われわれにとって自然であり本物であることの暗示でもあった。

[追記]

おりしも、下野竜也が吹奏楽でおなじみカレル・フサの大曲の管弦楽&合唱版を日本初演したようですね。

http://concertdiary.blog118.fc2.com/blog-entry-2004.html

沼尻竜典は合唱で日本の現代曲に親しんだようですし、下野竜也は吹奏楽(トランペット)から入った経歴と現在の活動を切り離して考えることはできない。かつてアマチュア青少年の合唱・合奏が、無茶を承知で、素手で「現代音楽」に触れることに喜びを見出した時代があった。その歴史は、眉をしかめるだけで「なかったこと」にはできない。

[追記2]

1980年本選での淀工の映像がYouTubeにあった。「神話」が書かれてからまだ7年しか経っていなくて、作曲者存命中の演奏ですから、「現代曲」として取り組んでいることになる。