シュトゥッケンシュミット、朝比奈・大栗を評す(1956年)

現場百回、久々にこの話題へ戻って来ました。今回は、作品そのもの、演奏そのものではなく、音楽家と批評の関係がわたくしの関心事。ちょっとだけ従来よりも視界が広がっております。作業は慎重に一歩ずつ進むのだ。

朝比奈隆のベルリン・フィル演奏会の現地での評は、帰国後、このような訳文の形で関西に伝えられ、大栗裕の「大阪俗謡による幻想曲」を語るときなどに、しばしば引用されることになった。かなり硬い文体ですが、もしかすると朝比奈さん自身が訳したのかもしれませんね。[追記:さすがに現役の音楽家が「和階音的」(たぶんharmonisch)、「多音的」(たぶんpolyphonisch)という言い方はしなさそうなので、ドイツに滞在していた年長の日本人の誰かに訳してもらったか。]

六月二十三日付 ヴェルト紙 朝比奈氏とフィルハモニカー 日本からの客人、ベルリンに於て高度の音楽家たる事を実証
 ヨーロツパの音楽は地球上の住民の一部分に理解されるに止まる。東亜に於ては高度に個別化された音楽文化があり、それらは我々にとつて、我々の音楽が彼等にそう感じられると同時にとても奇異に感じられるものである。
 我々の和階音的、多音的聴覚と、日本人、支那人、インドネシヤ人のメロデイ的、リズム的な感覚との間に橋渡しをするものがあるであらうか。個人的には確かにある。
 バリイ島に住む多数のヨーロツパ人はバリイ島の音楽が例えば日本の音楽に較べて遙かに我々の音楽と隔絶があるにもかかわらず、ガメラン音楽の虜になつている。
 東亜の住民の中で最初にヨーロツパの音楽に理解を示したのは日本人である。二代のゼエネレーシヨンにわたつて彼等の公式の音楽教育はヨーロツパ人の指導の下に置かれている。しかしてその指導の下に多数の日本の青年が集まるドイツの音楽家の数は年毎に増している。今日に於ては事態は日本古来の音楽を護る規定の必要さえ叫ばれるに至つた。
 ヨーロツパの音楽教育をうけた日本の音楽家達は、数十年来幾度もその技倆を発揮すべくドイツにやつて来た。
 ピアニスト、豊増氏のドイツ古典ピアノ音楽の夕は未だ我々の耳に新しい処である。彼と同じく朝比奈氏も東京のレオニード・クロイツアー氏に教育を受けた一人である。彼は多方面の教育を身につけている。文科の学士(Doktor[sic.] der Philosophie)であり、オーケストラの教育者であり、音楽学校の教授であり同時に日本の工業都市である大阪市のオペラの首長でもある。トーマス・マンの義弟でもあり、日本の音楽界の同胞の最初の権威であるクラウス・プリングスハイムは彼を高度の音楽家としてたたえている。
 朝比奈は高等音楽院の講堂に経験をつんだ指導者の確固たる足どりで現れた。
 最初のタクトから既に明確にして正確な指揮棒の動きに卓越した芸術意志の働きが感ぜられ、重量ある難しいプログラムの推移と共に此の音楽行為の主題の確立が実証せられた。
 二つの日本の現代の作品がプログラムのトツプに置かれた。芥川也寸志の弦楽器の為のトリプテイコンに於て巧みなテクニツクによるコンヴエンシヨナリズムの域を出なかつた。それはフランスの印象派の影響をうけ又、早期のプロコフイエフを手本として抑制された近代の光をそえている。
 大栗裕のベルリン・フイルハモニーに捧げられたフアンタジーは前者に較べて遙かに独創的である。
 その勇敢な色彩混合とメロデイカルな姿を浮び上らせるエキゾテイクな音階、不気味な非論理的なリズム、珍らしいチキチンチキチンの音、ドコドコとあふれる打楽器の響きの中に、古い異国民族音楽の魔法が生れ、それがヨーロツパの句切法の独特の結合を示した。此の音楽はステイリステイク(文法的)には、例えば松平氏の作品に見られる -- 日本の真の近代音楽への道程にあると云へる。
 朝比奈氏が此の恐ろしく異質な形式をベルリン・フィルハーモニーに馴化せしめた流儀、いかに彼の動きが暗示にみちて演奏者を働かせたかは瞠目に値するものであつた。
 第二部のヨーロツパ部門はスイスの作曲家ペーターミークのチエムバロ協奏曲で始まつた。
 これは総力に満ち、精密に組立てられ、時に超時間的な音色を交えた精神的に成育し開花した音楽である。芸術技芸的に指摘すれば、近代の流動する音辞に対するバロツク的手法の適用を見逃し得ない事である。シルビア・キントは此の新作をその溌剌としたリズム感を[ママ]演奏し、名人芸でありフアン[タ]ジイにみちていた。朝比奈の慎重なシンクロナイズされる伴奏技術は此の演奏に対する強い喝采に与つて大きな力となつた。
 次のモツアルト ロンド(K-382)(これは果してチエムバロの為のものであろうか)に於てはソリストとオーケストラの協力が成功したとは申し難い。
 モツアルトは此の作品を一七八三年にウイーンで或る“テアター・アカデミイ”に於て、C-dur コンチエルトK-415とD-dur K-175と同時に演奏した。
 彼(モツアルト)は実際に公開演奏の最中に楽器を替えたであろうか、疑いなきを得ない。
 ベートーヴエンの第四に於ける朝比奈の性格(音楽)によつて美事に区別し駆使する事を辨えた演奏はベートーヴエン指揮者としての彼が何者であるかを如実に示した。
 個々の、例えばスケルツオトリオに於ける早すぎるテムポに就いて異論はあるが、彼の論理性と文化的な趣味性、高度のインタープリターとしての彼の芸術感受性には賛美を禁じ得ない処である。
 フィルハモニカーは如何に快よく彼等が芸術的主権に服従するかを此の卓越した客人に感じせしめた。
 コンサートの終りにつけ加えて、朝比奈氏が一九五三年に死去した師匠であるレオニード・クロイツアーのブロンズのデスマスクを高等音楽院に贈る儀式が行なはれた。

H・H・シユトウツケンシユミツト

このようなお言葉を得た大栗裕のコメント。(なお、実際にはほかにもいくつかの新聞評が伝えられており、下の「バルトーク云々」は別の人の批評に関するもの。)

自作について 「大阪俗謡による幻想曲」 大栗裕

浪速ぶり 五線にのせて とつくにに 君が咲かせし 花だよりかな

この31文字は、ベルリンで朝比奈先生が同地のフィルハーモニー管弦楽団を指揮されて大成功を収められた時、同時に演奏された愚作がかなり好評を以て迎えられたのを、旧師のO先生からお祝いとして私に送られたものである。
ハンス・フォン・ビューローの有名な言葉に悪い指揮者はあっても、悪い管絃楽団はないというのがある。この名言にも私は若干の条件を設ける必要はあると思うが、彼が云った真理は欧州の一流の管絃楽団では立派に通用するに違いない。朝比奈先生の大成功は名馬を得て始めて名騎手の本領を発揮されたと云えるのではあるまいか。
さて、私の大阪俗謡による幻想曲であるが、朝比奈先生の御成功は当然としても、此の曲がバルトークに擬せられるような賛辞を見せられるに至っては誠に冷汗ものである。この曲は異邦人に異国趣味を起させ得るのは、作者の意図であって、この音楽的な感動が直ちに芸術的な価値と結びつくものとは思ってもみなかったので、ドイツの各紙の批評が送られてくる度に、誤訳されているのではなかろうかと疑った程である。勿論、同時に演奏された芥川さんの曲が、私の曲よりも強烈な印象を与えたという批評や、演奏した楽員達の中でも芥川さんの方がよく勉強しているという評判もあったそうであるが、寧ろ私にとってはこのような批判の方が当然だと思っている。
私の曲がそれ程大きな感動を起したということの原因は、朝比奈先生のベルリンの名演による以外には考えられない。無理に云えば此の効果ばかりを狙った作品の好評は、作者が予め計算し、設定した効果が、効果そのものとして働いたということ、そして次に日本伝統の音楽もその取扱いの如何によっては、西欧人の理解と共感をある程度得られるという可能性を立証したことであると思われる。この後者の問題は我々にとって非常に重要であって、今後の日本の音楽が当面する一つの方向であるとも考えられる。
又それは別に、あの大阪の夏祭の笛と太鼓の囃子をベルリンの人達がどんな顔をして演奏したかを、私の見ることが出来なかったのは最も残念であった。

大栗裕38歳の夏、なかなかオトナの対応をしているんじゃないでしょうか。

そして朝比奈さんの20年後のインタビューのなかでのコメントを見てみましょう。

小石 むこうに行かれる時は、だいたい日本人の作品を持っていかれるんですか。
朝比奈 いや、普通は持って行きません。持ってきてくださいとはいわれるんですが、ベルリン・フィルの時は、大栗さんの作品などよく持っていっていましたが、その後はあまりやりません。正直なところ、いわゆる日本の現代作品はあまりやりたくないのです。
小石 というのは、どういう理由からでしょう。
朝比奈 私は指揮者ですから、オーソドックスなレパートリーを指揮して聴いてもらいたいのです。むこうで日本の作品をやる場合、それは一種の好奇心ですからね。日本でやる場合は別ですが……。私は日本の指揮者として認められるより、国籍不明の、無国籍のインタープリター(解釈者)として認められたいのです。今までやった日本の作曲家といえば、芥川君、大栗君、それと一度だけ武満徹君をやったぐらいです。
(朝比奈隆、小石忠男『朝比奈隆 音楽談義』芸術現代社、1978年、59-60頁)

『楽は堂に満ちて』とほぼ同時に出た小石さんとの対談本。朝比奈さんが70歳にして、自分の本を出すようになった最初期の発言で、同じ関西の評論家さんとの対話なので、かなり正直に突っ込んだ話をしている印象を受けます。(小石さんや出谷啓さんは関西交響楽団(大阪フィル)の朝日会館での第1回演奏会の「新世界」を聴いたそうですから、本当に「朝比奈隆の大阪」を生きてこられた世代ということになりますね。)

最初はいちおう「大栗さん」と言っていたのに、いつの間にか、「芥川君、大栗君、武満徹君……」となるのが朝比奈さんらしい。

そして、上のシュトゥッケンシュミットが見た朝比奈の姿からほとんどブレていないことがわかる。大阪フィルとヨーロッパに行った3年後の発言ですから、最初にベルリンに行ったときに設定した課題を、20年まっすぐ進んでようやくひととおりこなせた実感を持っていたんじゃないかなあと思います。

何度も書きますが、70歳でやっとこれを言うようになった、ということですから長い話です。(その後の、私たちがリアルタイムに知っている朝比奈さんは、今度は逆に、この先20年これしか言わなくなっちゃって、しかもその姿をマスコミがしつこく増幅したので、偉くなってからがやや長すぎたかなあ、との思いを否定できないところではありますが(笑)。)

[で、これを言うと嫌な人もいるとは思いますけれど、吉田秀和は、朝比奈さんが死んでさらに10年以上、不動の姿勢でずっと生き続けたわけで、今の日本のクラシック音楽は、いわゆる「失われた20年」が同時に「昭和の重鎮が君臨しつづけた20年」でもあった後遺症で、何かとゴチャゴチャしているということなのかなあ、とも思います。ポモのジャーゴンを使うか否か、みたいなところでゲンロンがぐるぐる回ってる文芸評論とは、随分様子が違いそうですね。]