visual と graphical

聴覚文化 auditory culture という領域を学問の対象として主張するときには、潜在的もしくは顕在的に、視覚文化 visual culture との対比を想定することが少なくないと思うのだが、一方、コンピュータの技術としては、情報を可視化する手法に対して CG (Computer Graphics) とか、GUI (Graphical User Interface)とか、というように、graph 系の言葉が割り当てられるようだ。(パソコンやスマホの画面は Visual User Interface とは呼ばれない。)

そして、どこかから流出したらしい文書の解析手法の解説を読んでみると、膨大な資料から会社や人物の相関関係を抽出して、その結果を出力するのに、いわゆる「グラフ化ツール」が使われたらしいのだが、そういうツールがやっていることは、「グラフの可視化」と呼ばれるらしい。(AT&Tが開発した老舗の定番であるらしいソフトウェアの名称 Graphviz は、Graph Visualization Software の略記である、と説明されていたりする。)

それじゃあ、graph とは何かというと、語源はギリシャ語の graphein (書く)という言葉であるらしい。「記述・描写」ですね。(数学におけるグラフの定義であるとか、「ノード(節)とエッジ(辺)の集合で構成されるグラフに関する数学の理論」としてグラフ理論であるとか、という言葉遣いも、数学概念としてのグラフが、「書く=記述」という行為の数学的抽象化なんだろうなあと思わせる。)

CG や GUI を情報の「可視化」の技術である、と言ってしまうのは不正確で、むしろこれは、情報を二次元平面に記述(graphein)する方法のひとつであって、そこで想定されているのは、描画を「文字ベース」で行うか(=CUI)、「点と線の集合」として行うか(=GUI)、という対比だろうと思う。

「聴覚文化」vs「視覚文化」という最初の話に戻る。

A, CEO of, X
B, Customer of, X
...

みたいなノード(A, B, X)とエッジ(CEO of, Customer of)の記述(graphein)は、点と線の集合で visualize することもできるが、上のような言語定式は、視覚的でなく伝達することもできる。例えば、「聴覚文化」に分類されるであろうラジオ放送やオーディオ・ドラマ(そしておそらく音楽)は、ノードとエッジを聴覚的に伝達する様々な技術と方法を含んでいるであろうことが、台本術や作曲・形式理論から推察される。

事象の speciality を取り出すことを重視する立場からすると、visual でもあり得るものは「聴覚文化」の性質として副次的であり、auditory でもあり得るものは「視覚文化」の性質として副次的である、ということで、そういうものをどんどん削り取って議論を先鋭化させるのが先端研究である、ということになるかもしれないが、

(そしておそらく、認知科学のような「学際領域」は、様々な分野・アングルからの先鋭化が奇跡のように交じわっているかのように思えるが故に、「未踏のフロンティア」として有望視されているのだろうし、面白そうだから、是非何らかの結論が出るところまで進んでいただければいいと思うのだが、)

他方で、「記述 graphein」は、諸領域に共通して認められる重なりであったり、現象自体が横断的であったりするような、先端的とは違う仕方で興味深い行為もしくは事象なのかもしれませんね。

[別に大げさなことを言いたいわけではなく、さしあたり、Graphviz は何かに使えるかも、と思い始めているに過ぎませんが。Homebrew でOSXに簡単に導入できますし。]

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[で、考えてみたら、パナマ云々と前後してAI関連の話題で囲碁の話があったわけだが、脳研究は、脳を神経のネットワーク(ノードとエッジですよね)と捉えているようだし、囲碁も、点を結んで陣地を囲うゲームなのだから、当節の情報技術は、graphical な領域で成果を出しやすい風向きになっているのかもしれませんね。]