序論、第1章

序論:「技術は文化だ」

ジョナサン・スターンを、今度は小説か戯曲を読むように一行ずつ検討してみる。

視覚偏重で聴覚が不当に扱われている、という書き出しは、いかにもゼロ年代な、ひがみと煽りで辟易する。著者も時代の子である。

そこを我慢して先に進むと、「技術は文化だ」の構築主義が宣言される。例のリタニーを投入するポストモダンな現前の形而上学批判は、「音の本性」という超歴史性への信念を排除する文脈に置かれている。

文脈と関係なくポモに萌える党派の人ならともかく、

(ちなみにスターンは、構築主義や現前の形而上学批判の源流にマルクス主義があることを隠さない)

論文として順番に読めば、歴史の探求を実現するための装備、手続きとして現時点で私はこれこれを使いますと宣言しているに過ぎない。

歴史物語の「凪」で技術者たちが主役になる

第1章に入る。

ジョナサン・スターンが、構築主義やデリダのような「強い主張」を採用したのは、既存の物語にカウンターを当てて「凪」を作り、人工的な無風状態を確保する目論見なのだろうと受けとるのが、党派的ではない読み方だと私は思う。

さしあたり、この作戦は、「人の代わりに聞く機械」(グラハム・ベル)が生まれる「プロセス」を、発明という啓示・衝撃の事件とは違う仕方で語ることに役立てられており、発明品と発明家にスポットライトを当てる代わりに、複数の技術者たちの物語が動き出す。

「技術は文化だ」という宣言が、天才ではない人間たちの交わりの描写へ向かうのだから、なるほどこれは「21世紀の社会主義」かもしれない。

ところでこの最初の節には2枚のイラストと4枚の写真が挿入されるが、スコットのフォノトグラフの写真が秀逸である。

他の写真は一方向から照明を当てて細部が暗かったり、無用なハイライトが出ている。切り抜きやトリミングがなされているのは、撮影したままでは使えなかったのだろうと推察される。

一方、スコットのフォノトグラフは、トップライトで全体を照らして、ラッパの内部が暗くならないように右から補助光を当てている。台座の質感が伝わる影も美しい。背景を含めて、しかるべき手間をかけた写真である。

2つの光を中和させる手法は著者の紡ぐ「物語の凪」にふさわしいように思われるが、それだけでなく、「聞く機械」の話が現代の書物では視覚文化の技術と連携してようやくスムーズに動き出すわけで、写真は著者の言葉以上の何かを告げているようにも思われる。

「死」を取り扱う倫理

スターンは、人体解剖の精緻化と制度化が耳と聴覚の生理学を発展させたことを語る節に、図を一切掲げない。

前後の節では適宜普通に図や写真を入れるのだから、これは意識的な措置だと思う。

こうして、解剖図を誇らしげに満載するヘルムホルツとはまったく違う体裁で書き進められた節の最後で、著者は、ベルの機械に取り付けられた耳の元の持ち主(名前も伝えられていない貧しい死者)の喪に服す。

ここでのスターンは、ほとんど社会活動家のようだし、このような倫理なしには歴史は書けない。これはガキには書けない本であるという思いを強くする。

『音楽機械劇場』とか『ピアニストになりたい!』とか、対象に下品な視線を投げかける書物に嫌悪を覚えることなく、むしろこれらを面白げにもてはやしたこの島の読書界とは、大違いだ。

「政治的正しさ」をちゃんと受け止めた国と、半笑いで流そうとした国の品性の差が現れている。

口の模倣

第1章の最後に出てくる「口」と「耳」の話はちょっと物足りない。

ジョナサン・スターンは、耳を模倣する鼓膜的機械が成功した背景の記述には成功したが、口を模倣するオートマタの挫折については、頓挫したという事実を繰り返すだけで、「文化としての技術」と呼びうる水準でこれを物語ってはいないと思う。

たぶん、そのためには、音響生産技術の歴史(音響「再」生産ではなく!)という、もうひとつの物語が要る。

(この話は下へ続く)

自動化と可逆変換

上の話をもう少し考えてみた。

ジョナサン・スターンは、19世紀末の西洋が口を模倣するオートマタを諦めて、耳を模倣する鼓膜的機械に未来を賭けたと見る。口の模倣は音響の発生源=「生産」を自動化する目論見であり、一方、鼓膜的機械は、音の効果(=ほぼ「消費」)を発生源(「生産」)から切り離して取り扱う点に新味と成功の秘訣があった、というわけだが、ここでの失敗(挫折)と成功は、スターンの書物が自らの条件・制約として課していたはずの構築主義の歴史物語を越えて、あたかも超歴史的な「判決」であるかのように読めてしまう。

つまり、スターンは、「口」から「耳」へ、というモデルの変更に、「生産」の時代から「消費」の時代への転換を読み取り、それを必然と考えているかのように思えてしまうのだが、それでいいのかどうか。

「口」は音(声)の発生源であり、「耳」は発生源を不問とする効果の受信機構である、という図式が、スターン自身の見解(解釈)なのか、歴史資料から抽出されたものなのか。まず、この点がはっきりしない。

そして仮にスターン自身の見解(解釈)なのだとしたら、本当にそうなのか、読者には吟味する権利があるだろう。

もしかすると、「口」か「耳」か、という対立は、生産と消費の問題ではなく、声と音をめぐって、自動化の夢(人力を機械に置き換える工場的な発想)と可逆変換(エネルギーなるものを前提することで可能になる電気と磁気の相互変換等)という、いずれも19世紀の技術論では意味をもちそうな2つのアイデアがせめぎ合っていたのかもしれない。そして、たまたま音響の取り扱いに関しては、自動化の夢が潰えて、可逆変換の発想が有効な成果を出したけれど、この勝敗が永続的であるかどうかはわからないし、そもそも、自動化と可逆変換は、排他的な二者択一ではない。

「口」と「耳」を生産と消費のメタファーにしてしまうのは、唯物論とその改良案としてのポストモダニズムやカルチュラルスタディーズのバイアスである疑いがある。