virtualを虚構と訳した「ふしぎな」時代

今となっては、なんでそんなことになったのか、よくわからなくなりつつあるように思うのだが、

人類が使っている各種記号を情報の観点から再編したほうがよろしかろう、とか、通貨は実体と紐付けずに運用しても大丈夫そうだ、とか、たぶん19世紀以来少しずつ進んできた動きが20世紀の最後の30年くらいで顕在化したときに、それは嘘くさい(→ fictive 虚)とか、とりあえずそういうことにしとかないとしょうがないかなあ(→ virtual 仮想)とか、不承不承の見切り発車として取り扱われたところがあって、それが、「虚構」の語を virtual の訳語として使用する、という「ふしぎな日本語」に結実したんだと思う。

騒ぎが落ち着いてみると、この「虚構という名のvirtual」時代は、virtue(俗世を渡っていく勇気・人徳)にとっては有利に働き、fiction の周辺が「虚構」の語の奇妙な用法の煽りで混乱した、と総括できるんじゃないか。

人生はギャンブルだ、という virtual な主張が輝いて、humanities という fiction の影が薄くなる、とか。

後戻りはできないにしても、症状は次第に収まるでしょう。

(大澤真幸は、京大にいたからてっきり京大出身だと勘違いしていたのだが、東大社会学出身だったんですね。virtual を虚構と訳す「ふしぎな」話法は、「見田スクール」とまで限定するのはやりすぎかもしれないが、概して、東国の人たち/メトロポリス東京の趣味なのかもしれない。京都の浅田彰は、そういう言語的粉飾に一貫して無関心ですよね、たぶん。)