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終わり間際の減速で餅を食う

ロンド形式やロンド・ソナタにまとめられた速い終楽章で、コーダの終わり間際に急ブレーキがかかって既存主題を回想するのは、小岩信治が言う「緩から急へ」の演出の一種で、終楽章ではなく変奏チクルスについてだが、モーツァルトのトルコ行進曲付きソナタの変奏曲(Finale の一つ前に遅い変奏曲が入る)を分析したケルターボーンの文章の邦訳がある。ベートーヴェンの第3交響曲の終楽章のオーボエ独奏のくだりは、やはり変奏チクルスで同じ演出になるし、ハイドン風と形容されることがある第4交響曲の終楽章も、終わり間際で急ブレーキがかかる。(晩年の朝比奈隆が指揮したベートーヴェンの交響曲のDVDには、この箇所をしつこく稽古した映像が付いてくる。)

そこまでがイケイケで前のめりだから、急ブレーキ(そしてそれに続く「緩から急へ」のたたみかけ)が活きるのであって、後期ロマン派のいわゆる「循環形式」で死の間際に走馬燈のように過去の記憶が蘇る、というのは、同じように終わり間際に急ブレーキだが、意味も役割も効果も別だろうと思う。

(第3、第4交響曲のフィナーレで「急ブレーキ」を踏んだベートーヴェンが、第5交響曲では終楽章展開部の頂点でスケルツォ楽章を回想する。このあたりが、「緩から急へ」から「回想の走馬燈」への発想の転換の先駆けでしょうね。ベートーヴェンの作例は、この転換が、フィナーレを足取りの軽いハッピーエンドにするか、ずしりと重い最後の言葉にするか、チクルス全体の設計思想の変更と連動していることを告げてもいる。第5交響曲はフィナーレで楽器が増えて、サウンドも膨張する。終楽章が先行楽章を回想して、合唱・独唱までもが加わる「第九」(ロマンチストが大好きなカンタータ交響曲)まであと一歩だ。)

私は、古典主義的な演出としての「緩から急へ」はいいけれど、ロマン主義的な「回想の走馬燈」が好きではない。それをやられると、落涙するより醒めてしまう。ジークフリートの葬送行進曲までは許せるけれど、ブリュンヒルデが長々と歌ってからのワルハラ炎上は、「ええかげんにしなはれ、もう、話はわかったからさっさと終わりましょうよ」と思ってしまう。

「だまれこわっぱ」1個だけならともかく、第49回でここまでしつこく伏線を回収されると、在庫一掃セールとか、こんなにたくさん返済すべき借金を抱えてこの人は台所事情が火の車なのかなあ、とか思って、うんざりする。

(三谷幸喜の台本に芽があるのだろうけれど、NHKスタッフが最後を盛り上げようと過剰演出している気がしてならない。)

むしろわたくしとしては、日曜の夕方、地元の茨木駅に臨時の売店が出ていて「ずんだ餅」を売っていたことのほうが感慨深い。面白そうだから買って帰ったら、テレビの中も「ずんだ餅」だったわけで。

泣いている暇があったら餅をつけ、である。

大坂城が落ちたのは、堀が埋められたからでも家康が狡猾だったからでもなく、長澤やHKBまでもがメロドラマの軍門にくだって、ドラマが自壊した、と言うことではなかろうか。酒を弟と酌み交わすことなく江戸へ帰った大泉洋は立派だった、ということである。