ゲームと競技、ゲームと科学、ゲームと経済……

英語のように play と game を区別する言語は他に見当たらない、という意見があるようなのだが、日本語の競技・競争に相当する言葉を多くの言語に見つけることができるのではないだろうか。だから、英語の特徴は、遊びとゲームを区別することにあるというより、競技・競争に相当する概念を遊びに引きつける傾向が強い点にあると言うべきではないか。そしてゲームという概念を持ってしまった英語は、そのことによって、遊びと競技・競争の境界や差異や関係を語ることが、むしろ、難しくなっているのではないか。

そしてさらに言えば、ゲームへの関心、ゲーム化への過剰な期待の基底には、ゲームの語を使うことで、競技・競争の語を消してしまって、競技・競争を競技・競争としては語れなくしてしまう欲動があるんじゃないか。

なぜ、そんなことを欲望するか、というと、たぶん、世界を全面的に競技・競争の舞台としてのゲームにしてしまいたいのだと思う。私は無理だと思うけど。

たとえば、戸田山和久の科学哲学は、「科学はゲームではない」ということを、あたかも科学をゲームであるかのように語れてしまいそうな英米哲学の作法で論証しようとするところが特異で勇敢なのだと思う。

たぶん、戸田山に続け、とばかりに、「経済はゲームではない」「政治はゲームではない」「アートはゲームではない」ということを英米哲学の作法で論証することができるのではないか。そしてそうなると、この世界には、なるほどそのように望めば「ゲーム的」に取り扱うことができないわけではないけれども、きちんと議論を詰めれば、残念ながら、やっぱりゲームであるとは言い得ないような領域がたくさんあって、そういう領域を取り去っていくと、ゲームの領土はかなり小さく痩せ細るのではないかと私には思えてならない。

ゲームへの過剰な期待が落日の大英帝国に見える、というのは、そういうことだ。