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古語・雅語を字幕でどう翻訳するか

そういう風に具体的に言ってくれたら、意見の対立、「問題」の所在がはっきりして、まっとうな対話になる。東条さん(←今回はさん付け)、最初からそうしてくれたらいいのに。

伊東信宏先生は阪大の大学院生時代に岡田暁生と頻繁に会って勉強会を続けていて、私も大学院を受験した前後に数回仲間に入れてもらったが、そのとき、伊東さんは、この集まりとは別に大阪外大(今は阪大に統合された)のハンガリー語の先生と「青ひげ公の城」を読んでいて、これがとても面白いと言っていた。私は今も昔もハンガリー語がまったく理解できないので具体的なことはわからないが、台本が文学として面白い、というニュアンスだった。

のちに柴田南雄のことを調べて、柴田の親戚で、柴田のバルトークやハンガリーについての情報限だった徳永康元が「青ひげ公」を訳していると知り、バラージュ・ベラが映画論でも話題になるハンガリーの知識人だと知ったが、「青ひげ公」のテクストが、ハンガリー語で読んだときにどう面白いのか、私には今も(まだ)わからない。読めないので。

(可能性としては、将来わたしが一念発起してハンガリー語を「勉強」するチャンスがあるかもしれないので、いますぐ結論を出すことはないと思っています。放置されている宿題である。「勉強」という行為は、定期的に決算して白黒をつけるビジネスと違って、あっちこっちにこういう「宿題」が積み重なるものですよね。)

ただ、想像するに20世紀初頭のアール・ヌーヴォからモダニズムへ転じるヨーロッパの濃密な転換期の知識人の言葉遣いは、ひょっとすると、法律やビジネスの文書のように「意味が透明にわかればいい」という風には書かれていないのかもしれないな、とは思う。当時のハンガリーの状況や映画というニューメディアを擁護するバラージュの立場を考えれば、韜晦趣味で妙にこだわった言葉遣いをしているわけではないだろうと想像することはできるけれど、そうした「新時代の旗手」的な人の言葉遣いがしばしばトリッキーなのは、どこの国でもあることですよね。

文学者がこれをオペラの字幕用に日本語訳しようとしたときに、そうした原語の機微を知っているがゆえに、ストレートにわかりやすくしていいかどうか悩む、ということは、ありうるかもしれない。

ハンガリー語はマイナーで、ハンガリー語を日本語に訳すことのできる人が少ないからそうなる、というものでもないだろう。

ワーグナーのドイツ語の台本を日本語に訳すのだって、悩みは尽きなさそうだ。

例えば、(ちゃんと台本を読んだことはないので、たまたま目に付いた言葉を拾い上げたに過ぎないけれど) ジークムントは Lenz と叫ぶわけだが、日本語の「春」に相当することを指すのに、現在では Lenz なんて言わないわけですよね。19世紀にだって、たぶん、こんな言葉を会話では使わなかったはず。辞書には詩に用いられる雅語、と書いてありますね。

オペラの台本は、演劇の台本全般がそうであったように、平文・散文ではなく「詩」だったんですよね。

芸術歌曲の場合には、言葉と音楽の組み合わせからがさらに綿密だから、この種の言葉のニュアンスを翻訳で捨ててしまっていいのかどうか、さらに悩みは深くなりそうだ。

たとえて言えば、オペラや歌曲の訳詞や字幕には、和歌に作曲した日本歌曲や古語で書かれた北原白秋の詩を歌う「海道東征」のような作品の歌詞を、どういう風に外国語に訳したらいいか、というのに近い悩みがつきまとうのだと思う。

もちろん、訳者が未熟で間違えた、考えすぎた、という場合もあるだろうけれど、台本という形の「詩」と向き合う翻訳者には、ストーリーの効率とわかりやすさだけを考えるわけにはいかない事情がある。

そして、東条さんが効率やわかりやすさを減らすような翻訳に対して神経質なのは、「そんなことをしているとお客さんがそっぽを向いて、クラシック音楽が衰退するじゃないか」という恐れだと思う。放送業界で、スポンサー企業の重役さんとかが、新番組をプレゼンされたときに言いそうな台詞です。「そんなことでは視聴者がついてこないだろ」みたいな。

でも、東条さんがお嫌いないわゆる「読み替え」は、しばしばそうした、ストーリーの効率とわかりやすさからこぼれ落ちる要素を拾って、別の価値観に光を当てることがありますよね。東条さんは、そういうことをすると不人気になるということで、お客さんの「ご意向」こそが「ご威光」だ(=お客様は神様です!)とみなして議論を組み立てられる傾向があるとお見受けしますが、「読み替え」と呼ばれる演出は、予備知識のない人たちにとっては、むしろそのほうがわかりやすい場合が少なくない。

東条さんのように、「お客様へのわかりやすさ」を錦の御旗に掲げる人たちが、惰性と前例踏襲にこだわるあまりに、むしろ堅苦しい「教養」を手つかずに温存してしまい、反対に、「わかりやすさ」とは違う価値に着目する努力のほうが、教養の堅苦しさを別の姿に組み替えていく場合がある、ということだと思います。

そして通常、研究者や教育者は、後者に賭けるわけですね。

現在の音楽ビジネスの体制では、「効率」や「わかりやすさ」の追求は企業・法人として急速に整備されて、集団で猛烈な勢いで進みます。一方、翻訳は手作業にならざるを得ず、個人への発注です。翻訳は、圧倒的な多勢に無勢状態で、それでもあれこれ考えながら進められるストレスフルな個人の仕事ですよね、たぶん。

でも、そこでなされている個人の手作業は、公演を作る工程のなかでは、舞台(出演者やスタッフ)・宣伝等々と同格の独自の尊厳をもつ一部門だと思う。翻訳する個人の名前は、公演にかかわる各種法人の名前と同格に扱われるべきだ、というのは、そういうことです。

まあしかし、悩みは悩みとして抱えたうえで、出来上がった字幕は、文学芸術研究の成果の学会発表ではなく、その会場のお客さんに読んでもらうものなわけだから、なんじゃこりゃ、と思われたら失敗だ、というのは厳然としてそうだろう。

結構大事な話だと思います。

学者・文学者と客席の評論家が、正々堂々と論争すればいいんじゃないでしょうか。

(関西ではそういうのが軒並み「死に体」だが、関東だったら、音楽の学会とか、作曲家の名前を冠した協会とか、色々なアソシエーションがそれなりに活発みたいだし、どこかで討論会を企画してもいいんじゃないか。)