客演指揮者たち

国際的には9月から10月が新しい音楽シーズンのスタートなのだし、9月末のオーケストラの定期演奏会は、やはり、常任指揮者で開幕を飾るのが本来の姿なのだろうと思う。

7月にインバルのマーラー、9月にスダーンのシューベルト、10月にエリシュカのドヴォルザークというのは、国内の他のオーケストラでかつて看板を張った人たちの十八番の演目なのだから、品揃えが悪いわけではないけれど、フルシャとかウルバンスキとか、大植英次時代に来ていた生きの良い若手指揮者たちのほうが新鮮でスリリングでアクチャルに思えてしまうのは否めない。

(こうした若手の末席に加わるようにして、定期演奏会ではないけれど、山田和樹が、かつては大阪フィルと数回共演したわけですよね。)

資金源を絞られると音楽的なチャレンジが難しくなる。そのことが、客演指揮者のラインナップにあらわれているような気がします。

(スダーンは、リズムの扱いやサウンドへのこだわりにそれ以前の世代とは違う主張があり、ピリオド・アプローチへ向かう時代の流れをキャッチアップして地位を築いたのだろうとは思うけれど、ハーモニー、音楽の土台を組み立てる力が弱い指揮者のような気がします。音楽家としての基礎体力で上回る若手が既に台頭している今聴くと、一時代前の人だなあと思ってしまう。

ベルリン・フィルのラトルからペトレンコへの交替も、一点豪華主義ではない総合力を誰よりも楽員自身が望んでいる、そういう時代になったということだと思う。情報社会という名の宣伝スタッフによる書類上の辻褄合わせ(「子ども」が有力強力な市場として「発見」されてオトナたちが自信を失う80年代以前にはそういうのが「子供だまし」と呼ばれていた)を実力で正面突破しようとしたら、そういう選択になりますよね。)