文化史のなかのミュージカル

当初の計画ではオペラ史の応用・続きとして音楽劇としてのミュージカルを扱うつもりだったのけれど、実際に色々調べて、実作を観ていくと、むしろ、まずミュージカルのアメリカ文化史における位置と役割を見極めたほうがいいと思えてきた。

サヴォイ・オペラの女性コーラス(ミカドのヤムヤムとその仲間たち)の魅力を発展させる形でジークフリート・フォーリーズが一世を風靡したのが、おそらくブロードウェイの extravaganza としてのミュージカルを駆動する強力なエンジンだったに違いないのだけれど(ちょうどアイドルたちが日本の「歌謡曲」を牽引したように)、他方で、大恐慌後に興行が低迷したときに、今度はミュージカルがトーキー映画の有力なコンテンツになって、物語に歌とダンスを巧妙に組み込む職人技とハリウッド調のハッピーエンドこそがミュージカルの肝だ、という風に事後的に意味付けられた。

おそらく20世紀前半のブロードウェイの成功は、そういう風に、同時代的な意義と事後的な「伝説」の間にズレがあって、映画が事後的に劇場興行を意味づける、という形は、1959年のウェストサイド物語が1961年の映画(「理由なき反抗」のナタリー・ウッドがヒロインを演じた)を媒介して60年代に広まったり、1971年のジーザス・クライスト・スーパースター(ロイド・ウェッバーの出世作)がニューシネマのノリで1973年に映画化されたところまで続いているように思う。

(ジーザス・クライストをどのように翻案したか、というところを具体的に追っていくことで、劇団四季という団体の特徴もはっきりするように思います。)

そして80年代以後のミュージカルがオトナたちのお伽噺・ファンタジー(キャッツとかライオン・キングとか)になっていくのは、娯楽産業におけるディズニーの帝国化と軌を一にしている気がします。

とりあえず、ミュージカル史の最初の素案として、今年はそういう構図をスケッチできたところで終了。次回以後に、このラフなスケッチを肉付けしていきたいと思っております。どういうパーツを充実させていけばいいのか、少しずつわかってきたので。

ミュージカル史の側からロックを眺める、というのは、あたかもロックが20世紀後半の世界を制したかのように見なすユース・カルチャー至上主義を相対化するアングルとして面白そうですし……。ロックは劇音楽としてどういう場面でうまく機能して、どういう場面が苦手なのか等々。

(例えばジーザス・クライスト・スーパースターのロック魂は、堕落した為政者をかわいらしく肯定したり、裏切り者をヒロイックに讃えたり、大衆が愚かに熱狂したりする場面で輝きますね。シリアス路線ともブルーなジャズとも違うエートスなんだろうと思います。)