神託と勤勉、ポピュラーの教義

ところで素朴に教えて欲しいのだが、増田聡やその他の彼のブログをリンクして色々コメントしている人たちは、三輪眞弘の作品を体験したことがあるのだろうか?

三輪眞弘は狂気の沙汰ではないかと思うアルゴリズムで架空の宗教儀礼を生成する。「黙って座ればピタリと当たる」方式の占い・降霊など現代社会には存在しないと言わんばかりに、「精神」の存在する余地などありはしないと言わんばかりに、「勤勉」(industry の原義)を突き詰めることで、「やっぱりどこかに精神があるのかも」と思わせる。そういう実作者だと私は認識しています。

現代文化研究、とりわけ、文化におけるポピュラーの融通無碍な戦闘能力に期待したい人たちがいるわけだが、カルチュラル・スタディーズの出発点のところにあるホガードの『読み書き能力の効用』、ウィリアムズの『文化と社会』、トムソンの『イングランド労働者階級の形成』は、どういう扱いになっているのだろうか?

普通に生活してる人間が読破するのにいったいどれだけ時間がかかるのか、と思う細々とした記述で粘着質に分厚い書物なわけだが、あれ、みんなちゃんと読んだわけ?

それとも、あれは「お経」のようなもので、そういうのがある、と知っていればよくって、自分では、スチュアート・ホール風の文化人としての飄々とした物腰さえ身につければ、それで免許皆伝なのだろうか? 大盤振る舞いな大乗仏教として、ちゃんと上手く回っていく教義ができあがっているのだろうか?

(考えてみれば、伝えられるスチュアート・ホールの足跡は、ほぼ宗教家的・教祖的ですよね。信者が集い、教祖自身は本(単著)を書かずに説教・布教だけをやる。読書会という名の儀礼のときに、上記3冊=いわば「CS三部経」を朗唱する、と。「カルチュア」の5文字を念ずれば救われる、とか、「踊り融通カルチュア」とか、なかなかよさそう。大きな流れとして、科学的マルクス主義の唯物史観の「理」の革命が壁に突き当たったときに、文化の「情」へ転進するのは、そうやって「信」を再生しようとしているわけだから、宗教・信仰の政治力に期待していることになる。)

[などと書いていたら、今度は増田twitterに「受難」の主題が導入されて、ますます宗教色を帯びてきた。イイ感じです。頑張れ!応援してます!21世紀のジーザス・クライストだ!浄土真宗で部数を稼ぐ五木寛之の次を狙えるかもしれないポピュラリティの信心、弾圧・迫害される大学人。]

で、「ぐうたら」を演じていれば、いつか、「勤勉 industry」を悪魔払いできるに違いない、というのは初歩的な間違いだ、みたいなことが、教義にちゃんと入っているの?

新左翼と20世紀後期型ポピュラー・カルチャー論は、「勤勉 industry」が嫌いな人間がその旗の下に集まって、「勤勉 industry」の使い方を思い出せなくなってしまう危険があって、でも、「豊かさ」による労働者文化の変化、といっても、「勤勉 industry」が消滅したわけではないのだから、それはまずいと思うのだけれど、そちらの宗派では、そこのところ、どうなっているのでございますの?

「勤勉 industry」は、それなりに使い道があるざーますけど。

とりあえず今日から、industry を「産業・工業」と訳すのを止めてはどうか。

  • 第一次産業 → 第一次勤勉
  • 文化産業、娯楽産業、情報産業 → 文化勤勉、娯楽勤勉、情報勤勉
  • 産業廃棄物 → 勤勉廃棄物
  • 工業デザイン → 勤勉デザイン
  • 工業団地 → 勤勉団地

産業革命を勤勉革命で書き換えよう。