承前

増田聡、お前、ほんとにバカだろう。

俺は批評の仕事の関連で、人を審査する仕事を複数引き受けているし、たぶんそういう仕事は、俺がこういう立場を続ける限りずっと続く。(批評の仕事がなくなったら全部あっさり終わるだろうから、どこまでいっても覚束ないものではあるけれど。社会の浮き草ですからね。)

前のエントリーに書いたことは、文面としてはアームチェアで推理を展開する探偵のような文体で書いているけれど、そういう部外者のお気楽な詮索じゃないし、気楽な他人事「ではない」からこそ、こういう風に書くの。(そしてやるべきことは、ブログのおしゃべりとは別に、仕事としてやります。)

ごく単純な話として、例えば前回はアーノンクールが京都賞をもらったものだから、関連して2つ批評を書いた。(ひとつは京都賞のお膝元の京都新聞掲載分。もうひとつは、非常に複雑に関連機関の都合や思惑が絡まり合う形で直前まで色々あって、最終的に『音楽現代』にレポートを書く形に着地したのだが、なんかとても気疲れした。)そういう文章は、あたりまえのことだが京都賞が今どういう風になっていて、それをどう受け止めたらいいか、自分なりに整理して、その都度覚悟を決めないと何も書きようがなくなってしまう。

そしてあるいは、これはやや「遠い話」ではあるけれど、京都賞がどういう風になっていくかということは、(お膝元の京都や関西で)音楽家をどのように評価し、どういう形で顕彰したり、選別していくか、おそらく私が日々関わっているような場にも陰に陽に影響を及ぼす……かもしれない(当面はその影響が微弱なものであったとしても)。

君が君の立場で見えているのとは違う形で、同じ状況に関わっている人間がとてもたくさんいるし、そのような人たちはそれぞれ実に色々なことを具体的に思いながら行動している。そういう当たり前のことに対する想像力が、昔からそうだが、君には根本的に欠落している。

むしろ君のほうこそ、本当は状況にコミットしたくて仕方がないのに、なかなかそこへ介入できないし、できる道筋すら見えないからイライラして、それで、言葉の上だけであたかも何かに当事者的に介入しているフリをいているだけではないのか。

そんな暇人の欲求不満の相手をしている余裕を、まともな社会人は通常持たない。

勝手に酒呑んで寝てろ、バカ。

スチュアート・ホール (シリーズ現代思想ガイドブック)

スチュアート・ホール (シリーズ現代思想ガイドブック)

E. Tompson, The Making of the English Working Class が「トンプソン[!]の『イングランド労働者階級の歴史[!]』」となっていたり、ところどころ変な感じはするけれど、なるほど「ポピュラー・カルチャー」でいきたい人は、こういうのに憧れて、生き方とか、そういうのをマネしようとしてしまうんだな、とわかった。でもそれって、昭和の読書家が小林秀雄に憧れたり、平成の亜インテリが『批評空間』読んで柄谷行人ぶったのと何も変わってない気がします。そんなんでほんまに世界は変わるか? ただの中二病やん。「花の美しさ」は、操作概念としていくらでも定義できるで。
イングランド労働者階級の形成

イングランド労働者階級の形成