京都賞のしくみ

[*このエントリーは「下品」であることを予めお断りしておきます。もうちょっと「上品」なコメントとしては、http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20130628/p1 をどうぞ。]

これまでの音楽部門の歴代受賞者は西洋芸術音楽の主に前衛作曲家あるいは音楽家に限られており、ジャズという異なる音楽ジャンルの音楽家が今回はじめて選ばれることになった。このことは京都賞における音楽というものの位置(価値)付けに大きな変化があったということを意味するものだろう。

29thKyotoPrize

京都賞思想・芸術部門をフリー・ジャズのピアニスト、セシル・テイラーが受賞と聞いて、「ひょっとしたらこれ、最近ジャズにご執心のあの人が一枚噛んでいるのでは?」とすぐに思ったので(しかも他でもなくピアノ弾き!)、審査委員をチェックしてみた。下品な白石知雄の大好物であるらしき臭いがする(笑)。

審査選考は各部門専門委員会、各部門審査委員会そして京都賞委員会で行う三審制を採っております。これは財団が公平かつ厳正な審査選考を最も重視しているためです。

審査選考|稲盛財団
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三審制といっても、下級審に不服な者が上訴・抗告する裁判とは反対に、下流を通ったものだけが上に上がって、下で振るい落とされた候補はそれっきりになる。極端な話、上流の人たちは、どんなに不満があっても、下流から上がってこない者については選びようがない。だから、もし今回の選考が「大きな転換」なのだとしたら、それは、一番下の専門委員会がトリガーになっている可能性が高い。

ひとまず、音楽関係の審査員をリストアップしておきます。

思想・芸術部門

  • 審査委員会
    • 委員長 長木 誠司(東京大学 大学院総合文化研究科 教授)
    • 石田 一志(音楽評論家)
    • 工藤 重典(東京音楽大学 音楽学部音楽学科 教授)
    • 近藤 譲(お茶の水女子大学 名誉教授)
    • 鈴木 雅明(指揮者、バッハ・コレギウム・ジャパン 音楽監督)
    • 徳丸 吉彦(お茶の水女子大学 名誉教授)
    • 三輪 眞弘(情報科学芸術大学院大学 メディア表現研究科 教授)
    • 悠 雅彦(音楽評論家)
  • 専門委員会
    • 委員長 近藤 譲(お茶の水女子大学 名誉教授)
    • 伊東 信宏(大阪大学 大学院文学研究科 教授)
    • 岡田 暁生(京都大学 人文科学研究所 准教授)←ありゃ、数年前あんなにたくさん本を書いて色々な賞をかき集めたのに、まだ教授じゃないんだ。これ以上彼に何ができるというのか……。あ、そうか、我が町のノーベル賞である京都賞の審査委員ができるんだ(笑)。
    • 柿沼 敏江(京都市立芸術大学 音楽学部 教授)
    • 木村 俊光(桐朋学園大学 音楽学部 教授)
    • 細川 周平(人間文化研究機構 国際日本文化研究センター 教授)
    • 水野 みか子(名古屋市立大学 大学院芸術工学研究科 教授)
    • 毛利 嘉孝(東京藝術大学 大学院音楽研究科 准教授)

過去の人選と比較しなければ確かなことは言えませんが、これまで音楽部門はずっと前衛音楽系・クラシック音楽系の人が選ばれていたのに、今回は、委員の人選段階から、審査委員会にジャズ評論の悠雅彦さんが入っているし、専門委員会には細川周平さんと毛利嘉孝さん(←わたしは絶好のタイミングでカルチュラル・スタディーズの復習をしていたらしい、恐るべきシンクロニシティ)がいます。

……なんかもう、委員の人選の段階で、次はポップスから選ぶ気満々ではないですかっ!

他のメンバーも、そういう扇動に反対しなさそうな人が集められているように見えます。とりわけ今回の専門委員は、賞をもらい慣れている人、つまり、各方面に配慮しながらイベントごとをとどこおりなく段取り・お膳立てするタイプの人ではなく、そのようにお膳立てされた神輿に乗るのが巧みな人がずらりと並んでいる。

つまり、賞を選ぶ側からして既に、

「まず何よりも「数の原理」やグローバルな音楽市場における歴史的な「影響力」の大きさなどを評価の基準」(三輪眞弘)

の恩恵を大いに被り、そのような評価基準で栄誉を受けた経験のある人たちなのですから、委員たちが、自分たちを世に送り出してくれたのと同じ基準で選考を行ったとしても、何ら不思議ではない、と私には見えます。

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気になることのひとつは、いったい誰が委員の人事権を持っているのか。専門的見地から委員の人事に助言する人がいるはずだと思うのですが、それはいったい誰なのか、ということですが、

たぶん同時に考えなければいけないのは、こういう人事を差配するときに、スポーツで言う「名選手かならずしも名監督ならず」の格言ではないですが、華やかな受賞歴のある著名学者を集めれば集めるほど、選考は凡庸化する、ということだと思います。ここが、芸事の世界の科学と大きく違う点のひとつかもしれません。

(そもそも、コンテストとか表彰というのは、ハイ・ソサエティの閉じた人脈・推薦文化を補完して、「血」が濃くならないように部外者を一本釣りするしくみであり、そのような安全弁を装填することで、ハイ・ソサエティは大衆社会を生き残ってきたわけです。あくまで生き残りのための補完システムに過ぎないのに、サブ・システム出身の人ばっかりで固めて運営してしまったら、ハイ・ソサエティが自壊するのは自明の理。そりゃ「権威」は失墜します。今までとは違う対象を選ぶにしても、「選び方」のプロセスで他の追随を許さない「権威」を見せつける、とかしないと、その賞は腐りますわな。)

京都は、そのあたりの知恵が長年の蓄積で血肉化しているが故に「千年の都」と一目置かれていたはずなのにねえ……。当代は、たまたまボンクラなご当主しかいない「外れ」の時期(笑)かもしれませんね。

(しかし「あの人」は、名誉・栄光の臭いがするところに必ず涌いて出るゴキブリ状態ですねえ。転落・堕落の急加速はもう誰にも手が付けられない状態なのか。江戸京子のアリオン財団が潰れちゃったので、次は京セラ稲盛にロック・オン。サントリー財団さんも、しゃぶり尽くされる前に手を切ったほうがいいですよ。加速度的に、魔の手を伸ばして潰してしまう対象がでかくなってますから。)

世襲の名家や家元でも、何代か続くと、アホが出てくるやないですか。どういうメカニズムでそこを補正・修復するのか、今後に注目!

(ちなみに、ブーレーズもアーノンクールも元気でピンピンしていますから、京都賞をもらった音楽家はすぐに死ぬ、のジンクスは既に成り立たないです。)

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ただし、賞の運営として考えると、

今さら洋楽の重鎮演奏家や古典藝能の大師匠に贈賞しても新味はなさそうなので、往年の前衛の闘士たちに死にそうな人から順に賞を出して、20世紀の洋楽の最大の画期は古楽だということでアーノンクールに出したのだから、次は(なんだか岡田暁生『西洋音楽史』の20世紀の章の見取り図と似てしまうけれども←あ、書いちゃった)ジャズかなあ、とは思います。これで、「去りゆく20世紀」を讃える作業をやり遂げたと言えるのではないか。

(あとは、本当は時代を創ったと言いうる学者・批評家・研究機関・演奏団体など実演家の周辺の存在にも光を当てたいのでしょうけど、適当なところがあるのかどうか。)

どのみち、民間企業が私財を投じたお大尽の遊びですから、(何十年も来日しなかったアーノンクールが賞を受け取るために楽団引き連れて京都へ来る状況を作ってしまったのは、本当に、大金持ちの贅沢という感じだったし、)まあ、これでいいんじゃないでしょうか。

大きな賞を誰に出すか、選考を任された者に求められるのは何もないところに何かを出現させる創造性でもなければ、既存のヒト・モノ・発想の配置を組み替える批評性でもないし、事実を正確に記述・判定する知識でもない。そうした多方面の意向を踏まえつつ、玉石混合のオークションで掘り出し物を機敏に落札して展示会の目玉商品にして売りさばく目利きの才覚だと思う。岡田柿衞の孫は、学者としてはもうほとんど在庫が尽きたのだろうと思うけれど、その才覚が今回はまだ機能したようですね。