京都賞音楽部門のジャンル意識と前衛的モダニズム

[受賞者の平均年齢の統計なんてのは姑息な似非科学で筋が違う、という話を途中に補足。]

セシル・テイラーの京都賞受賞をめぐる三輪眞弘さんのコメントを最初に読んだときから、ひとつ腑に落ちないことがある。

[*もっと「下品」な詮索をお好みな方は http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20130624/p1 をどうぞ。]

言うまでもなく、今回感じたことは「ポップスの音楽家が”人類の精神的深化”を求める京都賞に選ばれた」というそのことだ。ここで言う「ポップス」とは” メディアテクノロジーに媒介されることによって成立している「音楽」のすべて”というぼくなりの定義(個人語では「録楽」のこと)であり、狭義のポップスやロック、ジャズ、クラシック、エスニックなどの音楽ジャンルの区別ではない。

29thKyotoPrize

三輪さんは、このように彼独特の「ポップス」概念を明示したうえで、セシル・テイラーは(も)「ポップスの音楽家」であるとし、その前提で論を進めている。

でも、京都賞サイトに出ている文書では、なるほどセシル・テイラーをジャズの音楽家(「フリー・ジャズの代表的なピアニスト」)と呼んではいるが、「プレス資料」をみても「業績」をみても、どこには「ジャズとは何か」を定義する文言はない。

たとえば、「プレス資料」は、いきなり

19世紀末から20世紀初頭にかけて、ニューオーリンズで生まれたジャズは、

稲盛財団

と書き出され、「ジャズ」は、あたかも書き手と読者の双方にとって既知の、既にどこかでその定義が合意・了解された自明の現象であるかのように扱われている。

そして「ジャズ」というジャンルの音楽家であることが、これまでの受賞者と今回の受賞者との違いを際立たせる特筆すべき事項であることを示唆する文言を見いだすことはできない。

      • -

一方、「フリー・ジャズ」については、かなりの言葉を費やして解説されている。

モダン・ジャズは1950年代を通じて高度にその様式を洗練させたが、1950年代終わりにはその方法論に行き詰まりが見られるようになり、その限界に挑むべく、様々な音楽的実験が試みられた。中でも、後に「フリー・ジャズ」と呼ばれることになる音楽的探求は、曲の構成、リズム、和声進行などにおいて、従来のジャズのイディオム(表現法)を大胆に解体し、表現の可能性の大幅な拡大を目指すものであった。1960年代に入ると、フリー・ジャズは公民権運動や黒人意識の高まりなどと呼応するように隆盛を極め、ミュージシャンによる自主的な組織も相次いで創設された。このフリー・ジャズの展開を、アルト・サックスのオーネット・コールマンとともに主導したのが、ピアニストであるセシル・テイラー氏である。

稲盛財団

この文章は、「ジャズとは何か」といった静態的もしくは文脈的な定義には無関心である一方で、「大胆」な「解体」、「可能性の大幅な拡大」、政治的緊張(「公民権運動や黒人意識」)への「呼応」、「自主的な組織」というように、状況を変化・流動化させる運動(ムーヴマン?)に強く反応する。

もうひとつの文書「業績」には以下の記述がある。

1929年ニューヨークに生まれたテイラー氏は、ニューイングランド音楽院などで専門教育を受けた。折しも、現代音楽界全体のなかで即興性と偶然性に関心が高まった1950年代後半、従来のジャズの演奏の方式、即ちテーマの後、その和声進行にもとづく各自の即興的ソロへと続き、最後にテーマに戻るという定型を破壊し、フレーズのまとまりにもとづくまったく独自の新しい生命力あふれる即興演奏法を編み出した。

稲盛財団

京都賞の文書群は、1950年代を「現代音楽界全体のなかで即興性と偶然性に関心が高まった」時代とみなし、セシル・テイラーの運動(ムーヴマン?)をそのひとつと位置づけているようだ。

京都賞音楽部門の過去の受賞者のほとんどが、「現代音楽界全体のなかで即興性と偶然性に関心が高まった1950年代」を代表する人物だったのだから、この文書は、そもそも、ジャンルなどどうでもよく、とにかく、「即興性と偶然性に関心が高まった1950年代」を代表する人物のひとりなのだから受賞対象である、という姿勢を打ち出しているように思われる。

そしてこの文章は、そのような運動(ムーヴマン)の末に、テイラー氏が「60年にわたって孤高の道を歩んできたアフリカ系アメリカ音楽の最高峰を行く妥協を知らない総合的な芸術家」となったと結論する。

つまり、京都賞の文書群は、ジャズが何なのか、本当のところはよくわかんないけど、とりあえずテイラーが「前衛」だ、ってところでみんなの見解が一致したんだから、今回はこれでいいんじゃないの、である。

      • -

で、翻って、ジャズって何なのだろう?

三輪さんの定義に照らして、「ジャズは(ジャズも)ポップスだ」でいいんだろうか。

三輪さんが、

「数の原理」やグローバルな音楽市場における歴史的な「影響力」の大きさなどを評価の基準にする

29thKyotoPrize

を強く警戒する実作者なのだろうということはわかるし、その姿勢への共感と連帯ゆえに、このコメントにネット上で反応があったのだろうけれど、

(「グローバル」への抵抗ってことですよね、6/23の日付のある記事が翌日早朝から朝の出勤時間帯の「ソーシャル・メディア」(って言うんですか)に拾われている。稲盛財団サイトの京都賞受賞者決定を伝える記事に記された日付は update 2013.6.21)

ジャズは、「前衛」ほどには「数の原理」やグローバリズムに敵対的ではないけれど、それじゃあ「ポップス」かというと、それもちょっと違うのではなかろうか。(三輪さんの「録楽」という大ナタで斬れば、「ポップス」になるだろうけれど。)

ジャンル意識の希薄さが京都賞音楽部門の選考の問題点なのだとしたら、それは、「ポップス」か否かの区別への自覚(警戒)が足りないところがいかんというより、そういう線引きでうまく整理できそうにないグレーゾーンなジャンルから、とりあえず「前衛」ってことでほぼ衆目の一致する人物を一本釣りにピックアップする行為の是非が問われるべきではないかと思う。20世紀後半を生きた音楽家における「深い精神性」を測る尺度としては、「前衛」くらいしかないのだろうか、本当にそうなのか?

(ちなみに、京都賞を取ったら死ぬ、と業界で囁かれていたのは、京都賞の音楽部門が往年の前衛の闘士に順番に賞を出しているのが明らかだったからで、前衛などという既に終わっている価値観を体現するのはジイサンに決まってますから、そりゃすぐに死ぬわけです。京都賞早死に説は、いつまで前衛路線を続けるのだろう、というニュアンスで言われた話であって、誰も京都賞に呪術的な力があって、受賞者の寿命を縮めるとは思ってません。こういうのを受賞者の平均寿命とかのデータで検証するのは、科学ではなく、原因と結果を取り違えた似非科学。皆さんの嫌いな「数の原理」の魔界への第一歩なので、統計好きな方はご注意くださいね(笑)。ましてやそこから、「老人に賞を出すな」というスローガンを引き出すなんてことをすると、それこそデマゴーグによるポピュリズムと言われかねません。関係者は、誰もそんな不毛な騒動を望んではいないはずです。

科学系の受賞者に比べて、芸術系の受賞者が高齢になりがちなのは何故なのか、説得的なメカニズムの仮説や推論を立てて、それに照らして今後への提言をまとめる、という風に話を展開するのであれば、そしてそのための出発点としてであれば、統計も意味があるかと思いますが……。そういうのを「地道な努力」と言うのでしょう? ただし、統計として有意な特徴を導き出すには、京都賞受賞者というのは母数が小さすぎるのではないかという懸念があるにしても。)

      • -

ジャズメンな方々は、テイラーがビッグな賞をもらって京都へ来るらしい、というトピックにどういう風に反応するものなのだろうか。

様々な民族の音楽はもとより西洋音楽も含めて音楽/芸術は徹頭徹尾、文化に固有個別のものであり、”精神的”という言葉を持ち出すならば、その評価は原則として固有個別の領域に踏みとどまる以外の道をぼくは知らない。

29thKyotoPrize

ということだとしたら、まずはジャズメンさんに訊いてみよう、がいいと思う。

帝王マイルス・デイヴィスにとって、フランスでアーチストとしてモテモテだったのは良いこと半分、悪いこと半分だったと評されたりするようですが、今セシル・テイラーなんだったら、時間の針を戻して、生きてるうちにMJに京都賞をあげられたらよかったのにね。(←「数の原理」におもねる官能と憂鬱なオチ?)

死刑台のエレベーター【HDニューマスター版】 [DVD]

死刑台のエレベーター【HDニューマスター版】 [DVD]