黙殺と誇大広告のあいだ - 関西(の)弦楽四重奏(団)

1月に関西弦楽四重奏団のベートーヴェン全曲演奏企画の2回目があって、3月にロータス・カルテットがドイツから里帰りして後期四重奏全曲を神戸、シューマンの全曲を京都でやるのだから、今は「関西(の)弦楽四重奏(団)」の話をする恰好のタイミングだろうと思うのだが、ロータス・カルテットの神戸公演を誰も聴きに来ないというのはどういうことだったんですかね?

神戸新聞の大きなホールでカルテットをやるのは、ちょっとしんどいとは思うけれど、それにしても、ロータス・カルテットの3回公演は、客席に誰もいないコンサートでございました。1回目は、雑誌にレポートを頼まれた、とか何とかで「音楽クリティック・クラブ」な人が数名いましたが(あなたたちが客席で無遠慮にしゃべる声は大きすぎます! 横原、寺西、君たちのことだ)、初回を聞けば、彼らの演奏スタイルががらりと変わっていて、これは大変なことが起きているとわかるはずだと思うのだが、「音楽クリティク・クラブ」な人たちは次から来なくなったので、あの演奏を聞いて何も感知できないボンクラだったのでしょう。

(2回目はちょっと落ちる演奏だったように思うし、メンデルスゾーンのイ短調はベートーヴェンのあとに演奏したほうが選曲の趣旨にはかなっていたように思う。演奏するほうとしては、ベートーヴェンをあとにしたいのだろうとは思いますが……。)

概して、関西のクラシック音楽の「業界」なのか「楽壇」なのか、ともかく、招待状を回してワイワイやっている界隈の人たちは、大阪の室内楽の国際コンクールがどういう水準で、そこから出てきた人たちがその後どういう風に活動しているか、ということについては、自分たちの間でぐるぐる回っている情報の「圏外」だと思っているようで、これをほぼ黙殺する。

そうやって、自分たちになじみのホールの主催事業や、自分たちになじみのマネジメントの企画だけを「関西=私たちのセカイ」の出来事としてチヤホヤするのは、別に今はじまったことではないけれど、ここまで公然と誇大広告と黙殺が乖離すると、さすがに、あほらしい。

数年前に小菅優がベートーヴェンのソナタ全曲を企画したときに、途中から、いずみホールが突如として世紀の大事件みたいに誇大に取り上げたのは、これと表裏一体のケースで、症状としては同じ構造にはまっていると思う。

「あいだ」をきめ細かく追っていくしくみがないのか、あったとしても摩滅している印象です。

(これは、関西に古い体質が残っている、というのとは少し違うと思う。狭義のジャーナリズム・事実報道とは別の審級として音楽評論を立てようとする人たちのグループがあって、大学人を巻き込んで言論活動を展開する動きが前世紀の後半に一定の実績を重ねていた。そういう人たちが死んで、大学人があほらしいから撤退した先で、再び一度は死に体になった「談合」的な「身内びいき」が人と姿を入れ替えて、装いも新たに(あたかも昔からこういうものであったかのような顔をして)再生している。そういう劣化コピーのゾンビが、このままの形で長続きするとは思えませんから、遅かれ速かれ、別のところから別の言論が出現するでしょう。)

ちなみに、ロータスのベートーヴェンの1、2回目があった3/9、10は、「音楽クリティック・クラブ」や大阪府が賞を贈った井上道義が大阪フィルとショスタコーヴィチをやった定期演奏会の日で、みなさん、そちらに行かれていたようですね。退任が決まった途端に誉める、というのも、朝比奈隆が老人になってから誉められたのに似た「楽壇/業界」の症状で、この人たちは、二重三重に、反省がないんだなあ、昭和を反復することしかできないんだなあ、と思わざるを得ない。

(井上道義は、誉められようが誉められまいが彼の人生を全うするだろうし、いただけるものはいただくのが当然なので、彼が悪いわけじゃないですが。そんなことを言えば、周囲の朝比奈フィーバーはそれとして、朝比奈隆も、彼のペースで人生を全うしたのだろうし、そういう存在に対してどういう立ち位置で私たちに何ができるのか、ということです。)

ついでに言うと、翌日3/11は神戸文化ホールで神戸市混声合唱団が大澤壽人の作品を特集していて、3月はこの週と次の週の週末をずっと神戸で過ごすことになりました。

(放送音楽劇「たぬき」の朗唱のスタイルが興味深かったし、旧居留地があってキリスト教が根付いている神戸には、ABCホームソングのような「うた」がよく似合う。)

その前の週は、びわ湖ホールがワルキューレをやったので大津。(これは京都新聞に批評を書いた。)

福島・中之島・京橋だけが関西やないで、ということですな。関西弦楽四重奏団も、もともと、京都の小さな場所でスタートしたんでしょう?

片山杜秀の言う適正サイズを「関西」で探すとしたら、往年の朝比奈隆グループ的な誇大さと、「身内」の範囲を超えるものへの黙殺の「あいだ」に目を向けた方がいいと思う。

感触として、神戸や京都や大津ではそういうセンサーが普通に機能しており、大阪がダメなのかも、という気がします。

春休みに、わざわざビジネス街に足を運んで「儀式」につきあうのは、人情として億劫でしょう。季節が良くなれば、街を出て海や山へ行くでしょう。音楽会を会議室主導で進めると、そのあたりがおかしくなっていくんだと思う。春のうららかな季節に「会計年度」という妙な線を引く、とか。

近年「会社」感満点な応対へと収斂しつつあった日本経済新聞さんから解放されたのは、わたくしにとって、幸福なことでございました。

[追記]

「会社」的、ということで私が思うのは、事業体としての業務の手順と効率を最適化することと、出荷される製品の品質は相関しない、という当たり前のことをもう一度考えた方がいいだろう、ということです。業務の手順と効率をチューンアップしたら「社内」の風通しはよくなるかもしれないが、「社外」からその結果としての出力がどう見えているか、「社外」からのリアクションを取り込む機構を業務の手順と効率の整備過程で非成長部門として切り捨てがちになっていないか、というようなことだと思います。

「会社」から自動化された反応しか出て来ない場合、お客さんや外部の取引先は、自分がベルトコンベアに乗せられた「もの」として扱われているように思いますよね。

印象としては、いわゆる「失われた20年」に、「もの」と扱われようがどうされようが、とにかく仕事を得なければはじまらない、という優先順位で世に出た世代が、「人間」との接し方を知らずに業務に邁進しているんじゃなかろうか、と思う場面が最近よくある。

そういう風な「人材」しか採れない状況なのだとしたら、大阪の洋楽に関わる「会社」や「団体」の事業体としての体力や見識はそこまでのものなのかなあ、ということになるだろうし、だったら、まっとうな大学人が次々撤退するのもしかたがない。(自分たちの教え子は、そういうのではなく、もっと良好な環境に送り出したいと思うのが当然ですしね。)

あと、とりわけ、大阪の洋楽は、お客さんから見える「店舗」としては多様で数もそこそこ多いけれど、裏に回るとかぎられたリソースをやりくりしていて、業界としては狭く小さな規模だと思います。

だから、ひとつの店舗がこういうことを始めた、という情報があっという間に回って、みんな横並びで同じことをはじめたりする。

いずみホールでうまくいったことが自治体の公共ホールでも成功するかというと、ありかたが違うのだから怪しいものだし、日本センチュリーのやり方を見習えばスポンサーが付いたり山田和樹が来てくれる、とか、そういうことではなかろうと思うのですが、そこは、単に横並び、というだけでなく、ある種のシステムにのっからないと東京や国外とのパイプが作れない、という風な事情も絡んでいたりするのでしょうか。

誰が最初にこの消耗するゲームを降りるか、ということですかね。

ロータス・カルテットは、独立営業で大変ではあるのだろうけれど、その苦労は生産的で幸福そうに見えます。

イザベル・ファウストやシュタイアー(大阪の意識高い系メセナの代表いずみホールのお気に入り!)と同じ空気を吸って、同じ水準の情報・客層を相手に仕事をしているのは、若い頃の華々しい経歴からすれば地味としか言いようのないロータス・カルテットのほうだと思う。