[1980年代から90年代に吹奏楽で大栗作品が広まった経緯のまとめを付記。]
一つ前のエントリーで、大栗裕に「触媒」のようなところがあったかもしれないと書きましたが、1982年4月18日に大栗裕が亡くなったあとの数々の追悼演奏会は、大栗裕が人とのつながり、おつきあいを大切にし、愛されていたことを教えてくれるように思います。
4/20の没後30年演奏会は「蘇る大阪」と銘打っていますが、大阪の数々の華やかな行事で彩られた表の顔を振り返るだけでなく、大栗裕の周りにあった人のつながりに、再び血が通うような感じがあるようにも思っております。
考えてみれば、周忌法要というのは、そういうものですね。
●故大栗裕告別式
葬儀委員長:竹内光男、喪主:大栗芳子、1982年4月20日、寝屋川玉泉院
(大栗裕は4月18日に亡くなって、告別式は2日後の20日。京都女子大学学長と大阪フィルハーモニー交響楽団音楽総監督朝比奈隆の弔辞につづいて、京都女子大学マンドリンクラブ(「セ・ララ・ルーナ」)、京都女子大学合唱団(大栗裕作曲の仏教讃歌「みほとけのほほえみに」←今も京女では歌い継がれています)、関西学院大学マンドリンクラブ(大栗裕の編曲による「アルルの女」間奏曲)、龍谷混声合唱団(大栗裕作曲の仏教讃歌「私の中に」)の演奏があり、大阪音大ホルン専攻生による演奏とともに出棺であったようです。
今回の大栗裕没後30年演奏会は、奇しくも告別式からちょうど30年後の同じ日付ということになりました。)
●大栗裕教授追悼影絵公演
京都女子大学子どもの劇場主催、1982年7月14日、京都会館第2ホール
- 「ごんぎつね」 意匠:池田竜介、うた:林達次、エコー・エレガンテ他、影絵構成演出:中川正文
(大栗裕が1962年に関西学院大学マンドリンクラブ指導5年目の節目に作曲した「ごんぎつね」は、ソプラノ、バリトンの独唱、混声合唱、語り手とマンドリンオーケストラというかなり大掛かりな編成による音楽物語。大栗自身は、服部正が慶應マンドリンのために書いた作品を意識したのか、「ミュージカル・ファンタジー」と銘打っています。初演はかなり話題になったようで、ラジオ、テレビでも放送され、茂山千之丞が演出したセミ・ステージ形式の(二人の独唱者が扮装して芝居をしている)写真も残っています。
京女の同僚だった中川正文先生の子どもの劇場は、大栗裕の生前にも「ごんぎつね」を取り上げています。中川先生は昨秋ご逝去されました。児童文学の第一人者で、大阪府立国際児童文学館館長だったときには、この施設が当時大阪府知事だった橋下徹の標的になり、取材を受けていらっしゃいました。)
●大栗裕先生追悼演奏会
主催:京都女子大学マンドリンクラブ、1982年10月28日、大谷ホール
- マンドリンオーケストラのためのバーレスク
- ドビュッシー/大栗裕編曲「小組曲」
- サン=サーンス/大栗裕編曲「サムソンとデリラ」より バッカナール
- ミュージカル・ファンタジー「赤神と黒神 - 秋田地方の伝説による」
(京都女子大マンドリンクラブは大栗裕が京女へ来たあとに出来て、大栗裕は創立以来の顧問でした。マンドリンオーケストラの作品のなかには、京女のために作曲されたものがあり、1977年の「赤神と黒神」もそのひとつです。プログラムには、中川正文先生も寄稿していらっしゃいます。そして音楽学者の中川真さんは正文先生のご長男で、この追悼演奏会でも、打楽器で「賛助出演」されたようです。)
●龍谷混声合唱団第37回定期演奏会 -- 故大栗裕先生を偲んで --
1982年12月10日、京都会館第2ホール
- 仏教讃歌「私の中に」
- 合唱曲「歎異抄」
(龍谷混声合唱団は、龍谷大学男声合唱団と京都女子大学女声合唱団という西本願寺系の2つの大学の合唱団を合わせた団体です。大栗裕は、京女の教授になると、京女女声合唱団の顧問になり、彼女たちのためにも作曲や編曲を行っています。そして最晩年には、林達次のあとを受けて龍谷混声の指揮者も務めました。(ちなみに龍谷男声の指揮者は大栗と旧知の木村四郎だった。)体調を崩し、龍谷混声の定期を指揮したのは一度だけでしたが……。
「歎異抄」は、1965年、大栗裕が京女教授になった翌年に龍谷混声が初演した作品です。以来、この団体のために、「御文章」、「悲歎述懐」、「大無量寿経」と、浄土真宗が大切にしているテクストへの作曲を続けました。)
●第九シンフォニーの夕べ
主催:神戸コンサート協会、1982年12月25日、神戸文化ホール
- 大阪俗謡による幻想曲
(朝比奈隆指揮、大阪フィルの「第九」。合唱は、神戸土曜会合唱団、関西学院大学混声合唱団エゴラド、武庫川女子大学音楽部、神戸商科大学グリークラブ。大栗裕の追悼を銘打った公演ではありませんが、「第九」の前にわざわざ「俗謡」をやることは、この演奏会に関わった誰かの意志を感じます。この演奏会のプログラムは大栗裕の遺品とともに、大阪音大大栗文庫に寄贈されています。プログラムが大栗家にあったのは、ご遺族がこの演奏会へご招待を受けたということなのではないか、とも思われます。ちなみに、大栗裕は関学エゴラドのために「牛」など2つの作品を書き、上記「ごんぎつね」の初演の合唱もエゴラドでした。)
●大阪フィルハーモニー交響楽団第189回定期演奏会
1983年1月19日、フェスティバルホール
- ヴァイオリン協奏曲
(「第九」演奏会の次の月の大阪フィル定期演奏会は、外山雄三の指揮、辻久子の独奏でヴァイオリン協奏曲を取り上げています。そしてコンチェルトの前にバルトーク「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」があり、メインはエルガー「エニグマ」。60年代に大阪や京都で仕事をしていた外山さんの指揮で、バルトークと並べて大栗作品を演奏するのですから、大栗裕をまぎれもなく「東洋のバルトーク」として追悼するプログラムです。
1962年に大栗作品が大阪フィル定期で最初に取り上げられたときには、「雲水讃」にベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲とチャイコフスキーの交響曲第4番が続く、という、いかにも朝比奈隆らしいプログラムでした。それから20年の間に、大栗裕のイメージは「遅れてきた国民楽派」から「20世紀の民族主義」に書き換えられたということだと思います。)
参考:「東洋のバルトーク大栗裕」という呼称について思うこと(暫定)http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120318/p1
●故大栗裕先生をしのぶ音楽会 ホルン・フェスティバル形式による
故大栗裕先生をしのぶ音楽会実行委員会主催、1984年8月9日、森ノ宮ピロティホール
- 大栗裕名曲集 - 故大栗裕氏の作品によるコラージュ 赤い陣羽織〜小狂詩曲〜神話〜大阪俗謡による幻想曲(高橋徹編)
- 馬子唄による変装曲又はホルン吹きの休日
(大栗裕ゆかりのホルンの方々が企画した演奏会で、このときの皆さんが、今回の没後30年演奏会でも運営の核になっています。プログラムを見ると、今回の没後30年演奏会と同じく、冒頭に献奏としてベートーヴェン「自然における神の栄光」があり、「馬子唄」の独奏はN響の千葉薫。司会は桂春蝶さん。全体合奏の冒頭では、朝比奈隆がタンホイザーの巡礼の合唱を指揮しています。)
[付記]
ちなみに、没後間もなく『バンド・ジャーナル』のニュース欄に大栗裕の小さな訃報記事が出ていますが、亡くなったときには、まだ吹奏楽のビッグネームというわけではなかったようです。
生前に楽譜が出版されていたのは、コンクール課題曲だった「小狂詩曲」と「バーレスク」以外では、「巫女の詠えるうた」(ヤマハ教販、1981年)だけでした。
また、生前に市販された録音は、「小狂詩曲」がオランダ海軍軍楽隊と、東芝EMIの吹奏楽オリジナル名曲集Vol.1(演奏:大阪府音楽団)に入っている作曲者自身の指揮した演奏の2種類。そして同じ吹奏楽オリジナル名曲集Vol.3(演奏:大阪市音楽団)の朝比奈隆の指揮による「神話」、これだけです。(朝比奈・市音のLPは私も持っていたくらいなので、当時の吹奏楽関係者にはそれなりに知られていたとは思いますが、「神話」は、音源があっても未出版の状態だったわけです。)
淀工が最初に「俗謡」のカット版を自由曲に選んだのは1980年(この曲で1975年以来二度目の金賞)、大栗裕が亡くなった翌年1983年には「神話」を自由曲で演奏しています(金賞)。同じ年に近大、1984年には尼崎市吹奏楽団(1979年に「巫女の詠えるうた」を委嘱した団体)が「俗謡」を演奏しています。(その後、尼吹が1985年に「神話」、淀工は1988年に「神話」、1989年に「俗謡」を再び演奏。)
1983年、大栗裕が亡くなった翌年に朝比奈隆が呼びかけ人になって自筆譜が各団体から大阪音大に集約されます。この段階では、ひとまず資料が寄託され、遺族から大学が貴重な楽譜をお預かりしている状態でしたが(資料が正式に寄贈されたのはかなりあと)、ともあれ、資料の運用は大学付属図書館が行うことになり、上記その他の演奏に活用されただけでなく、自筆譜を底本にして、「仮面幻想」(カワイ出版、1985年)、「神話」(音楽之友社、1989年)、「俗謡」(短縮版、Shawnee、1989年)と相次いで楽譜が出ました(現在Shawneeの「俗謡」以外は既に絶版)。
吹奏楽の場合、みなさん、それこそ自己責任と申しましょうか……、アメリカの自警思想にも似た行動力で楽譜を自力で調達する気風がありますから、未出版・既出版の区別なく、有名校がコンクールで取り上げると数年後にはその曲が全国に広まるようではありますが(「神話」は大阪市音のLPが出た年にはコンクールで最初に演奏されていますし、楽譜が出版されるより前1986年頃から全国の様々な団体が演奏しているようです)、それでもやはり、ご遺族の御厚意・関係者の尽力による楽譜出版は、80年代後半から大栗作品がさかんに演奏されるようになったときに、ひとつの指針になったのかな、と思います。
そして1990年代にいくつかCDが出て、1993年には『バンド・ピープル』3月号で大きな大栗裕特集が組まれました。「大栗裕といえば吹奏楽」というイメージが確立したのは、実は作曲者の死後、1980年代後半から1990年代にかけてのことであるように思われます。
こうして「吹奏楽の大栗裕」という主に没後に外へ波紋のように大きく広がることになる輪があって、その内側には、ここでご紹介したように本人と直接おつきあいのあった方々の輪/和がある。その両方が噛み合ってはじめて、大栗裕という作曲家の円満な全体像が見えてくる。そんな気がします。