空気を読まないシェーンベルクとサラサラ流れるコルンゴルト

ドイツに1年いて帰ってきた頃、一足先にドイツから帰国して阪大の助手になった岡田暁生が学生数人を誘って交響詩の勉強会をやったことがある。シュトラウスの音詩について彼がAfMwに論文を投稿した時期だったので、自分が勉強しつつあることを話したかったんだと思う。リストのタッソー、シュトラウスの死と変容、シェーンベルクの浄夜とペレアスを一緒に分析したが、当時よく知らない曲だったし、言えることのレヴェルが違いすぎて張り合いがなかったのではないかと思う。(その後、神戸大に移ったあとだったか、さらにあとに京大人文研に入ったあとだったかもしれないが、別のメンバーを誘ってベルクのソナタやシェーンベルクの歌曲の勉強会をやったと大久保賢や上野正章から伝え聞いたが、こちらは呼ばれていない。)

その時ひととおり楽譜を読んだことは、交響詩や新ウィーン楽派について考えるときの基礎になっていて、浄夜やベルクのピアノソナタは音楽史の授業でも取り上げることがあるけれど、ペレアスとメリザンドは扱いかねていた。

大阪交響楽団が定期演奏会でやるというので聴いたが、30年間放置していても、聴いてみると、どういう曲だったか結構覚えているものだなあ、と思った。

シェーンベルクの初期の作品はいわゆる後期ロマン派のスタイルの延長だけれどもとんでもなく凶暴で、この交響詩はのちのグレの歌に続くような巨大さが指摘されて、シュタインによる編曲版でもサウンドの分厚さはよくわかるけれど、それ以上に、ぐいぐい迫ってくるクレッシェンドが恐い。猛獣が檻や柵に向かって何度も全力で突進しているみたいだ。指揮者の寺岡清高や大阪響ご自慢のブラスセクションは、これがやりたかったのだろう。

でも、それだけだと、荒ぶる若者が欲求不満を発散するべく乱暴狼藉を働いているみたいになる。

音楽の表現主義では、「動機」が重要だと思う。ライトモチーフという音楽的な意味での動機であり、凶暴さを駆動して作者が「外に ex- 出す -press」ことを欲している何かとしての動機。

この曲では、「運命の動機」にしても、それぞれの登場人物の動機にしても、音楽の場面転換にしても、いつも、新しいものが唐突に現れる。伝統的なオペラのアリアやロマンティックな抒情を目指す器楽作品が、序奏や推移で周到に気分を準備して、その予め敷き詰められた音と気分の赤絨毯の上で歌うのと正反対だ。

(最初のバスクラリネットの鋭いリズムで音程の歪んだ「運命の動機」からしてそうですよね。暗い森のような低音楽器たちの中で、唐突に空気を切り裂いて吹き始める。)

サウンドは後期ロマン派だけれど、こういう「唐突さ」(奏者の側から見れば、その場の空気を読んで、流れに乗るようなやり方ではうまくいかない譜面)が、マーラーやシュトラウスとは違うシェーンベルクの特徴ではないかと思う。

(音楽史的には、古典派がソナタのような大形式を構成するために活用した「不連続」なモチーフ投入(とその展開)の手法を装いも新たに復活させることで、20世紀の「新音楽」や「新古典主義」や「新即物主義」は「悪しきロマン主義」のべたべたねっとりな感情表現と決別した、という風に言われますよね。「ペレアスとメリザンド」の唐突な運命の動機は、そうした新世代の新しい音楽の最初の狼煙だと思う。)

寺岡・大阪響の演奏は、新しい動機がそこまでの音楽の流れ・テンポで安心安全にいつの間にか入ってくるので、そうじゃないだろう、とイライラさせられた。お互いに空気を読み合って、突出孤立することを恐れるSNS世代のお友達感覚で群れる学生たちみたいだった。「内輪」で騒々しく盛り上がっているのだけれど、その力が「外に出る express」ことはない。

曲目解説でウィーン大好きな小宮さんが、コルンゴルトの音楽をスムーズで滑らかな仕上がりだと形容していたが、コルンゴルトは、実人生においても、辣腕評論家の父親が敷いたレールに乗ってデビューして、誘われるままにハリウッドに行ってウィーンに帰ってこれなくなったわけだから、ウィーンやベルリンで一貫して「空気を切り裂く」仕事をして、もうこれ以上はヨーロッパに居られない、となったときに、宗教(キリスト教)も言語(ドイツ語)も捨てて北米で英語を話すユダヤ教徒に変貌したシェーンベルクとは真逆の生き方をしたと思う。

寺岡さんや小宮さんが好きなのは、コルンゴルトを育てたウィーンの「空気」なんでしょうね。

シェーンベルクの音楽は、あなたたちの大好きな「空気」を、別の視点から相対化する存在だと思う。そのつもりで取り組んで欲しかった。


Schönberg - Pelleas and Melisande, Op. 5 (Claudio Abbado & Gustav Mahler Youth Orchestra)

休憩中のロビーでかつてのアバドの演奏(CD)が話題になっていましたが、マーラー・ユーゲントとの演奏がYouTubeで公開されていますね。シェーンベルクの管楽器の分厚いオーケストレーションが、個々の動機をくっきり際立たせて、音のドラマを作りあげるうえで有効・必然だったことがよくわかる。フルートetc.のメリザンドがチェロのゴローにおびえていたり、楽器たちは、「気分」に浸るのではなく、筋 Handlung を構成するべく行動 handeln していますよね。

この映像は、「名曲名演奏」というのではなく、ポスト冷戦時代=短い20世紀が終わった新時代、のヨーロッパのオーケストラ運動がどういうところからスタートしたか、というドキュメントにもなっている気がします。

シェーンベルクは、ハイフェッツの録音で誕生したときから「懐メロ」だったコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲という「名曲」(笑)とは全然違う文脈で21世紀に存在していると思います。